サッカー日本代表の100年以上続く東アジアでの戦いの歴史 E-1サッカー選手権開幕 (2ページ目)
【戦前から始まっていた東アジアでの戦い】
さて、EAFF発足前にも東アジア各国が争う大会は古くから存在した。そして、時代が古くなるほど日本チームの東アジア大会に向けての本気度は高かった。
最も古いのは1913年に始まった「極東選手権大会」だ。
日本、中国、フィリピンが参加する総合競技大会で、当時アメリカ領だったフィリピンはスポーツが盛んで、日本は陸上競技や水泳では強かったが、野球を除く球技では中国にもフィリピンにもなかなか勝利できなかった。
実際、サッカー日本代表が初めて大会に挑んだ1917年の第3回大会(東京)では、日本最強の東京高等師範学校(筑波大学の前身)蹴球部が代表となったが、中国に0対5、フィリピンに2対15という信じられないスコアで大敗を喫した。
そのため、1921年創立の大日本蹴球協会にとって、極東選手権での勝利が最大の目標となった。だが、初勝利は1927年上海大会でのフィリピン戦まで待たなければならなかった。
そして迎えた1930年の東京大会では、協会は初めて全日本選抜チームを結成して参加した(それまでは、国内予選で優勝したチームが代表となっていた)。そして、「全日本」はフィリピンに勝利した後、明治神宮外苑競技場(国立競技場の前身)での最終戦で、中国と対戦。激しい点の取り合いの末に3対3で引き分けて同率優勝を飾った。
「同率」ではあったものの、これが日本サッカーにとって国際大会での初めてのタイトルとなった。
政治的理由で極東選手権は1934年大会を最後に解体。その後、1936年のベルリン五輪で欧州の強豪スウェーデンを破るまで強化が進んだものの、第2次世界大戦後日本サッカーは弱体化。1960年代の東京、メキシコの両五輪を除いて、アジア予選の壁に跳ね返され続けた。
とくに、第2次世界大戦後に独立した韓国は「宿敵」と呼ぶのがおこがましいほどで、1959年のローマ五輪予選で勝利した後(1勝1敗で得失点差で敗退)、15年間も勝つことができなかった。
また、第2次大戦後は東西冷戦がアジア大陸にも波及。中国は1950年代末にはFIFAを脱退してしまい、中国や北朝鮮との交流が難しくなったため、東アジアの大会を開くことは不可能だった。
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