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サッカー日本代表の100年以上続く東アジアでの戦いの歴史 E-1サッカー選手権開幕 (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【日本サッカー飛躍のきっかけ ダイナスティカップ】

 だが、1980年代に入ると緊張緩和が進んだため、1990年には「ダイナスティカップ(中国語名「皇朝盃」)」という大会が始まり、合計4回開催された。日本、中国、韓国、北朝鮮が参加する大会だった。

 ところが、日本は第1回大会では3連敗、しかも3試合で無得点という惨敗に終わった。

 しかし、1992年の第2回大会では日本は優勝を果たした。そして、この優勝は日本サッカー史上でも大きな意味を持つものだった。

 この大会が開かれたのは、日本代表史上初の外国人監督ハンス・オフトが就任した直後だった。

 戦術的規律を求めるオフト監督とそれに反発するラモス瑠偉との確執が囁かれていたが、ダイナスティカップ優勝によってオフト監督の威信は確立され、同年秋の広島アジアカップでの優勝、さらに翌1993年のW杯最終予選進出につながっていったのだ(最後は「ドーハの悲劇」で幕を閉じたが)。

 前回に続いて北京で開かれた第2回大会。日本は初戦で韓国と引き分けた後、中国、北朝鮮に勝利してリーグ戦を首位で終え、2位の韓国との決勝戦に臨んだ。決勝戦は再び引き分けに終わったものの、PK戦で勝利して優勝した。日本が国際大会で優勝したのは、なんとあの1930年の極東選手権以来のことだった。

 1930年大会が「同位優勝」だったのと同じく、1990年の大会でも韓国との決勝は2対2の引き分けだったが、当時の感覚で言えば韓国との引き分けは「大健闘」と言わざるを得なかった。当時日本代表人気はそれほどでもなかったので実況中継はなく(後日、録画中継があった)、新聞記事も小さなものでしかなかったが、サッカーファンは「優勝」を伝える小さな記事を見て胸を躍らせたものだった。

 その後、日本は順調に強化を進め、ダイナスティカップでは第4回大会まで3連覇を飾った。

 第4回大会は1998年、つまりフランスW杯開幕の3カ月前に開かれた。当時の日本代表に「海外組」はおらず、岡田武史監督にとってはフルメンバーでの強化試合だった。

 岡田監督は、アルゼンチンやクロアチア相手に3バックで戦うのか、4バックにするのかまだ迷っていた。

 そこで、岡田監督は体の大きな中国との試合は守備のテスト、香港選抜戦は攻撃のテストといったように、試合毎にテーマを決めて戦うことを決心した(韓国戦は真剣勝負!)。

 横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)のこけら落としとなった初戦で韓国を破った日本は、香港にも5対1で大勝。だが、中国戦では開始9分で思いがけない失点を喫してしまう。

 リードした中国はその後守りに入ったので、日本は「守備のテスト」ができなくなってしまったが、それでも岡田監督は方針どおり守備的布陣で戦ったので、事情を知らないマスコミからは相当叩かれることになった。

 時代とともに持っている意味が変わってきた東アジアの大会。海外組が使えず、対戦相手の実力もまちまちな今回の大会を、日本は代表強化にどうつなげていくのか? 同じくソン・フンミンを初めとする海外組が不在の韓国との勝負も含めて見ていきたいと思う。

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著者プロフィール

  • 後藤健生

    後藤健生 (ごとう・たけお)

    1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。

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