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サッカー日本代表の最初の海外移籍は約50年前 当時世界最高峰のブンデスリーガで9シーズンも活躍 (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【海外移籍最初の例】

 海外移籍の最初の例となったのは、1977年の奥寺康彦のケルン(西ドイツ=当時)入団だった。

 この年の夏、日本代表は恒例の欧州遠征を実施。アマチュアチームなどと練習試合を行なうのと並行して、二宮寛監督は代表選手を数人ずつ分散させてブンデスリーガのクラブのシーズン前の合宿に参加させた。そして、ケルンの合宿には奥寺のほか、西野朗、金田喜稔を参加させたのだが、同クラブのヘネス・バイスバイラー監督は奥寺に目をつけた。

 ケルンは、ちょうど俊足ウィンガーを探していたのだ。

 神奈川県の相模工業大学附属高校(現、湘南工科大学附属高校)から古河電工に入団した奥寺は、1976年にブラジルのパルメイラスに短期留学を経て急成長。当時の日本サッカーリーグ(JSL)では、奥寺はただ縦に走るだけでDFラインを突破できるようなパワーとスピードを身につけていた。

 奥寺はケルンからのオファーに、いったんは断りを入れる。海外移籍など前例がないことだったのだから、不安に思うのは当然である。しかし、バイスバイラー監督から再び入団を要請され、二宮監督や日本サッカー協会からのサポートもあったため、ついに渡独に踏みきった。帰国する際には古河に戻れることにもなっていた(実際、9シーズン後に奥寺は古河に戻る)。

1977年6月のケルン対日本代表のチケット。ここでもバイスバイラー監督は日本代表のプレーを見ていたことになる(画像は後藤氏提供)1977年6月のケルン対日本代表のチケット。ここでもバイスバイラー監督は日本代表のプレーを見ていたことになる(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る 奥寺のケルン入りは、日本のサッカーファンにとっては驚天動地の出来事だった。

 メキシコ五輪で銅メダルを獲得して以来、日本代表は低迷期に入り、五輪でもW杯でもアジア予選を突破できず、JSL人気も低下していた。欧州のプロなど遠い世界のように感じられていたのだ。

 だからこそ、奥寺本人も最初はプロ入りに躊躇したのである。

 ケルン入団によって、奥寺は日本代表から外れることになった。奥寺を代表活動に呼ぶことも検討はされたらしいが、「不可能」と結論づけられた。

 今のように、国際マッチウィークのようなものが制定されていなかったので、アジア大陸内の大会は欧州とはまったく別の日程で開催されていたからだ。

 また、現在と違って日本代表は長期合宿を繰り返しながら強化を行なっていた。そもそも、奥寺がバイスバイラー監督の目に留まったのは日本代表の欧州合宿があったから。代表は毎年、1カ月以上の欧州遠征を行なっていたのだ。今のように「集合して3日後には試合」というやり方など、日本では不可能だと思われていた。

 奥寺が抜けるということは、ちょうど釜本邦茂の引退と時期が重なっていたため、日本代表にとっては大きな痛手だったが、二宮監督は日本代表をすぐに強化することは難しいので、将来への布石が大切だと考えていた。

 当時、海外組の代表招集が難しいと思われていたのは、日本だけではない。たとえば、1978年の地元開催のW杯を前に、アルゼンチンの軍事政権は選手の海外移籍を禁止した。代表強化のためである。実際、アルゼンチン代表としてW杯に出場した国外組はスペインのバレンシア所属のマリオ・ケンペスだけだった。

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