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サッカー日本代表の最初の海外移籍は約50年前 当時世界最高峰のブンデスリーガで9シーズンも活躍 (4ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【西ドイツで9シーズン活躍】

 さて、ケルンに入団した奥寺は当初は周囲の信頼を得られなかったようだが、次第に得点を決めるようになり、1979年にはチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)準決勝のノッティンガム・フォレスト戦で同点ゴールを決める大活躍をした。

 当初、ケルンは奥寺とウィンガーとして契約した。しかし、その後、1981年にヘルタ・ベルリンに移籍した奥寺はサイドバックとしても起用されるようになり、これを見たブレーメンの名将オットー・レーハーゲル監督に評価されてブレーメンに移籍。その戦術理解能力が高く評価され、「東洋のコンピューター」と称された。

 西ドイツで9シーズンにわたって活躍した奥寺は、1986年に契約延長のオファーを断って帰国。渡独の際の約束どおり、古巣の古河電工に復帰。左サイドバックとして古河電工のアジアクラブ選手権優勝に大きく貢献した。

 また、日本代表にも復帰してソウル五輪予選に挑んだが、最終的に中国に敗れて20年ぶりの五輪出場はならなかった。

 ケルン入団の経緯やその後の日本代表との関係など、現在の日本人選手の欧州移籍とはすべてが異なっていることがおわかりだろう。

 ちなみに、1968年のメキシコ五輪後には日本が生んだ不世出のストライカー釜本邦茂にも海外クラブからオファーが届いていた。

 釜本が、翌1969年に肝炎に侵されたこともあって海外移籍は実現しなかったが、もし彼が欧州クラブに移籍していたら、たとえば現在で言えばロベルト・レバンドフスキ(バルセロナ)のような世界的なストライカーとして評価されることとなっていただろう。

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著者プロフィール

  • 後藤健生

    後藤健生 (ごとう・たけお)

    1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。

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