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サッカー日本代表とインドネシアの対戦の歴史 36年前に泥だらけのピッチでワールドカップ出場を争ったことも (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【戦前にも一度だけ対戦】

 第2次世界大戦後に独立するまで、現在のインドネシアは「オランダ領東インド」(蘭印)と呼ばれていた。

 インドネシアという国は、西はスマトラ島から東はニューギニア島までの広大な領域にまたがる大国で、現在の人口は2億7000万人に達しており、国内には様々な言語を話す多くの民族がともに生きている。かつて海洋大国だったオランダが17世紀に勢力下に置いた地域がインドネシアという国になったためだ。西欧列強は、アジアでもアフリカでも現地の事情に関係なく、自分たちの都合で勝手に国境線を引いた。

 その蘭印の代表と、日本は戦前に1度だけ対戦したことがある。1934年にフィリピンのマニラで開かれた第10回極東選手権大会の初戦だった。日本、中国、フィリピンの3カ国が参加して1910年代から行なわれてきた極東選手権大会はこの大会が最後となるのだが、第10回大会には蘭印も招待されていた。

 蘭印戦では、前半16分にオランダ系のヤーンに先制点を奪われると、その後も失点を重ね、日本は1対7という大敗を喫した。

 現在のインドネシア代表は、オランダ生まれオランダ育ちの選手を数多く招集して強化を図っているが、当時の蘭印代表は現地在住のオランダ人や中国系を含む多民族のチームだった。

 蘭印戦の直接の敗因はマニラの暑さと雨に悩まされたことだった。同時に、日本は関東、関西の選手を集めて全日本選抜を作ったのだが、事前合宿で十分なトレーニングができなかったのも影響していた。

 日本が中国東北部に作った傀儡国家「満洲国」が極東選手権大会への参加を要求。中国はもちろんこれに絶対反対。サッカー日本代表の竹腰重丸監督は大日本体育協会の役員として、「満洲国参加問題」に忙殺されてしまったのだ。

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