稲本潤一が衝撃を受けたジダンとの1対1 「何もさせてもらえなかった。削るヒマもないくらい」 (4ページ目)
【戸田さんに止められることはなかった】
── では、日本代表で頼りになったチームメイトを教えてください。
「僕が代表で持ち味を出せた時期は、2000年から2003年ぐらいだったと思うんですよ。その頃は後ろにしっかりと構えてくれる選手がいてくれて。
たとえば戸田(和幸)さんだったり、ミョウさん(明神智和)だったり、何回かヤット(遠藤保仁)と組んだ時もありますけど、当時の僕は前に行きたいタイプだったので、後ろでバランスを取ってくれる選手が頼りになったというか、やりやすかったですね。
僕が前に飛び出すのはチームの戦術にもある程度なっていたので、そういう人たちと組むと、自分の色は出しやすかったかなと思います」
── 戸田さんと明神さんは守備的なイメージですけど、遠藤さんも稲本さんと組む時は守備的に振る舞ってくれたんですか。
「ヤットはそんなにハードワークするタイプじゃないですけど、やっぱりバランスの取り方だったり、僕がもらいたい時にパスしてくれたり、いてほしいところに顔を出してくれるんですよ。
司令塔のイメージが強いですけど、ヤットの優れているところはポジショニングで、そこはずっと考えていたんだと思います」
── 日韓ワールドカップでは、戸田さんがボランチのパートナーでしたよね。
「戸田さんは、『俺が後ろでカバーするから、好きなように前に行っていいよ』と言ってくれていました。止められることはなかったです。トップ下のヒデさんもカバーしてくれていましたし、僕がワールドカップで点を取れたのも、ふたりの存在が大きいですね」
(つづく)
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【profile】
稲本潤一(いなもと・じゅんいち)
1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。1997年、ガンバ大阪の下部組織からトップチームに昇格し、当時最年少の17歳6カ月でJリーグ初出場を果たす。2001年のアーセナル移籍を皮切りにヨーロッパで9年間プレーしたのち、2010年に川崎フロンターレに加入。その後、北海道コンサドーレ札幌、SC相模原を経て、2024年に南葛SCで現役引退。日本代表として2002年から3大会連続でワールドカップ出場を果たす。国際Aマッチ出場82試合5得点。ポジション=MF。181cm、77kg。
著者プロフィール
原山裕平 (はらやま・ゆうへい)
スポーツライター。1976年生まれ、静岡県出身。2002年から『週刊サッカーダイジェスト』編集部に所属し、セレッソ大阪、浦和レッズ、サンフレッチェ広島、日本代表などを担当。2015年よりフリーランスに転身。
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