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サッカー日本代表と対戦するサウジアラビア オイルマネーによる強化の歴史 (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【1980年代に台頭】

 1975年にはハンガリーの英雄フェレンツ・プスカシュがサウジアラビア代表監督に就任。1982年にはブラジルのマリオ・ザガロが招聘された。当時は、選手としても(1958年と62年)監督としても(1970年)W杯優勝を経験した唯一の人物だった。

 こうして、サウジアラビア代表はたちまちアジア最強の地位を築き上げた。

 アジアカップでは1984年シンガポール大会で初出場・初優勝。4年後のカタール大会でも優勝し、1992年広島大会で3大会連続決勝進出を果たしたが、決勝ではハンス・オフト監督の日本と対戦し、高木琢也に決められた1点を返せず、準優勝に終わった。

 しかし、4年後には王座を奪還。優勝3回は当時の最多記録だった。

 つまり、サウジアラビアは1980年に台頭した新興勢力だったのだ。

 日本との初対戦は1990年の北京アジア大会で、この時は2対0でサウジアラビアが勝利。そして、2回目の対戦が1992年アジアカップ決勝だった。

 僕が初めてサウジアラビア代表を見たのは1986年ソウル・アジア大会。クウェートとの準決勝だった。

 2対2からのPK戦でサウジアラビアが決勝進出を決めたのだが、そのプレーのスピードと強度には本当に驚かされた。近い将来、日本が互角に戦えるようになるとはまったく思えなかった。

 1989年10月にシンガポールで行なわれたイタリアW杯アジア最終予選でもサウジアラビア代表の試合を見たが(日本は1次予選敗退)、この時のサウジアラビアは北朝鮮に勝利しただけで6チーム中5位と不振で、韓国とマリオ・ザガロ監督のUAEがイタリア行きを決めた。

 サウジアラビアは、強いけれども安定感を欠いていた。

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