サッカー日本代表と50年以上前に度々対戦 板倉滉所属のボルシアMGは「教師のような存在」 (3ページ目)
【日本サッカーの強化に力を貸してくれた】
豪華メンバーが名を連ねたボルシアMGに対して日本代表は善戦した。
日本代表は、1960年代を通じて毎年のようにソ連や西ドイツなどに遠征を繰り返し、夏にはシーズンオフに入ったばかりの欧州の強豪を招待して学んだ。
その結果、1968年のメキシコ五輪で日本は銅メダルを獲得。すると、長沼健監督は「次はW杯」と公言し、W杯アジア予選に照準を合わせていた。
ところが、ボルシア戦直前の合宿中にストライカーの釜本邦茂がウイルス性肝炎に罹っていたことが判明し、釜本は戦線を離脱してしまう。スイーパーを置いて守備を固めて前線の釜本で点を取るというのが当時の日本代表の戦い方だっただけに、釜本の欠場の影響は致命的かと思われた。
それでも、釜本抜きの日本代表はボルシアMGに対して善戦した。
第1戦こそ1対3で完敗を喫した日本代表だったが、広島での第2戦では、終了間際にドリブルで持ち込んだ若手FWの木村武夫のクロスがそのままゴールに吸い込まれ、日本は1対1の引き分けに持ち込んだのだ。
日本が健闘したおかげで東京・国立競技場での最終戦(第4戦)には4万5000人の観客が集まった。その大観衆の前で、日本は激しい攻防の末に0対1で敗れはしたものの、バイスバイラー監督をして「これほど激しい試合は欧州でも珍しい」と言わしめた。
1969年のボルシアMG来日時の試合のチケット(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る ただ、やはり釜本不在の影響は大きく、ソウルで開かれたW杯1次予選ではオーストラリア、韓国相手に2分2敗と1勝もできずに敗退してしまった。
ボルシアMGは、ブンデスリーガ勢として初めて来日したクラブだったが、同時に日本代表がアウェーで初めて試合をしたブンデスリーガのクラブでもあった。
1960年代には日本代表は毎年のように西ドイツに遠征していた。だが、当時は西ドイツ代表との対戦など想像もできない時代だった。日本の対戦相手は各州のアマチュア選抜や地方クラブなどばかり。
1974年のW杯期間中にも日本は西ドイツに遠征した。そこで、僕もW杯の合間に観戦に行ったのだが、会場はスタジアムではなく広大な芝生が広がるトレーニンググラウンドで、対戦相手は「VfLケルン99」という警察関係のアマチュアクラブだった。
そんな時代に、ボルシアMGは日本代表と対戦してくれたのだ。
最初は1968年メキシコ五輪直前の遠征で、2万5000人の観衆が集まったボルシアMGの本拠ベーケルベルク・スタジアム。日本は4点を連取されたが、最後に釜本が一矢を報いることに成功した。
また、1971年の遠征の時にも日本代表はベーケルベルクでボルシアMGと対戦し、2対4で敗れたのだが、この試合では1974年W杯で西ドイツの主力として活躍することになるライナー・ボンホフに4点を決められている。
いずれにしても、1960年代から70年代にかけて、ボルシアMGは日本サッカー強化のためにさまざまな形で力を貸してくれたのだ。板倉の活躍はその"恩返し"と言っていいのかもしれない。
著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2022年12月に生涯観戦試合数は7000試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。
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