サッカー日本代表の史上多得点記録は15点 ダブルハットトリックを決めたFWとは? (3ページ目)
【日本に再び9番タイプは出てくるのか】
7得点した中国戦でCFを務めたのは上田綺世だった。
悪いパフォーマンスではなかった。
前線でターゲットとなって、33分には町田浩樹からのパスを受けてそのまま突破して決定的チャンスを作った(守田英正のハンドがあってノーゴール)。そして、58分にはやはり町田のパスを受けて絶妙のタイミングで南野拓実に落とし、チームの4点目を生み出した。
ただ、残念なことに上田は、無得点のまま79分で交代を命じられた。
上田がああいった試合で1点でも2点でも決められる選手に成長してくれれば、あるいはパリ五輪で活躍した細谷真大が成長してくれれば、いよいよ日本は待望の「9番」タイプを手に入れることができるのだが......。
それとも、「9番」タイプを待つことなく、浅野拓磨や前田大然のような前線で動き回る選手を使ったほうがいいのか......。
ところで、日本代表の最多得点試合はフィリピン戦の15得点だったが、最多失点記録も同じフィリピン相手の15失点だった。
1917年に東京で行なわれた第3回極東選手権大会。日本、中国、フィリピンが参加する総合競技大会だった。当時、サッカーでは選抜チームは組まれず、日本最強の東京高等師範学校(筑波大学の前身)が日本代表として出場したが、フィリピン代表の「ボヘミアンズSC」に2対15で敗れた(協会創設前の試合なので、JFAはAマッチとして認定していない)。
そして、ボヘミアンズSCにはパウリーノ・アルカンタラというFWがいた。
スペイン人軍人とフィリピン人女性の間に生まれたアルカンタラはバルセロナで数々の得点記録を作っていたが(その多くは、リオネル・メッシによって塗り替えられた)、この時はマニラ大学入学のためにバルセロナを退団してフィリピンに戻っていたのだ。
アルカンタラは、のちに再びバルセロナで活躍。スペイン代表となり、さらにスペイン代表監督も務めることになった。今から107年前に、東京高師の学生たちはそんなワールドクラスのFWと対戦していたのである。
著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2022年12月に生涯観戦試合数は7000試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。
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