パリオリンピックで旗手怜央が思い出す3年前の東京オリンピック 今も心に残っている吉田麻也の言葉がある
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3年前の東京五輪メンバーに選ばれた旗手怜央は、左サイドバックと左サイドハーフでプレーした。当時複数ポジションで頑張ったことで得られた教訓や、オリンピックに関して、今でも心に残っている言葉を教えてくれた。
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旗手怜央が3年前に出場した東京オリンピックでの経験を語った photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る
【左サイドバックへの挑戦が奏功した】
パリ五輪のニュースを見て、3年前の東京五輪を思い出した。
コロナ禍で開催された2021年の東京五輪は、当時の自分にとって、世界を知る貴重な機会だった。セルティックでプレーする今は、UEFAチャンピオンズリーグなどで世界の強豪と対戦する機会にも恵まれている。しかし、プロになったばかりだった当時の自分にとって、世界はまだどこかぼんやりとしていた。
だから、東京五輪での活躍によって、世界に羽ばたくきっかけをつかめるという思いも抱いていたし、東京五輪に出場したことによって、世界に出ていきたいという思いもより強く抱くようになった。
もし東京五輪がコロナ禍によって1年延期されず、2020年に開催されていたとしたら......。
もし東京五輪のメンバーが22名ではなく、当初の18名だったとしたら......。
僕はあの舞台に立てていなかったかもしれない......。
いくつもの「もし」が重なり、僕は東京五輪に出場することができた。そして、微かな「もし」を「チャンス」に変えた自分に、自信を持つこともできた。
2021年、僕はチーム事情から、当時所属していた川崎フロンターレで左サイドバック(SB)として試合に出場していた。不慣れなポジションでの出場に、当初は少なからず戸惑いもあった。
それでも、DFだからといって、守備だけを意識するのではなく、自分が出るからには攻撃で違いを見せようと考え、プレーした。その積極性が奏功して、チームの勝利に貢献すると、僕自身の可能性もまた広がった。
その結果、東京五輪を前にした日本代表の活動でも、左SBとしてチャンスをもらった。MFだけでなく、SBとしてもプレーできることを示した僕は、日本代表における存在価値を高めることができた。
もし、自分があそこで左SBでの出場を固辞していたとしたら、日本代表での出場機会も得られていなかっただろう。未知のポジションではあったが、鬼木達監督からの期待に応えようとしたからこそ、その後の道は開けたと思っている。
何より、東京五輪で僕が登録されたポジションは、MFではなくDFだった。左SBにチャレンジしたことが、いかに自分が置かれた状況や立場を好転させたかは言うまでもないだろう。
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著者プロフィール
旗手怜央 (はたて・れお)
1997年11月21日生まれ。三重県鈴鹿市出身。静岡学園高校、順天堂大学を経て、2020年に川崎フロンターレ入り。FWから中盤、サイドバックも務めるなど幅広い活躍でチームのリーグ2連覇に貢献。2021年シーズンはJリーグベストイレブンに選ばれた。またU-24日本代表として東京オリンピックにも出場。2022年3月のカタールW杯アジア最終予選ベトナム戦で、A代表デビューも果たした。2022年1月より、活躍の場をスコットランドのセルティックに移して奮闘中。