鮫島彩は2011年ワールドカップ優勝のなでしこジャパンの試合中に思った「なんでこんなに楽しいんだろう」

  • 早草紀子●取材・文 text by Hayakusa Noriko

今季引退・鮫島彩インタビュー(2)

 20歳の時、鮫島彩はなでしこジャパンに初招集される。そこは緊張する場所だったと彼女は振り返る。それでもその場所に食らいついたからこそ、サイドバックという道が開け、その先に見えたのが"世界一"。しかし鮫島は、そこから"欲"が芽生えた。日本中を沸かせ、多くの人が影響を受けたあの2011年のワールドカップ制覇は、もちろん鮫島にとっても大きな分岐点となった。

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【サイドバックへのコンバートはチャンスだと思った】

――なでしこジャパン初招集は2008年でしたね。

 喜びっていうよりは緊張です! 知らされた瞬間から「どうしよう、どうしよう」って緊張しまくってました。当時の私にとって、なでしこジャパンは目指す場所とかじゃなくて、もう単純に憧れの存在。シンプルに日本代表のユニフォームを着て戦うってカッコいいじゃないですか。だから......怖かった(笑)。でもそこには誇りがあって。代表とはそういう場所です。

――鮫島さんと言えばスピード! というイメージがありますが、いつ頃から意識していたのでしょうか?

 もともとドリブルやシュートは好きだったんですけど、スピードに対しての自覚はあまりしていなくて。明確に自覚したとすれば、ノリさん(佐々木則夫監督)に、サイドバックにコンバートされた時かもしれません。それってスピードを買ってもらったからとしか考えられないじゃないですか? サイドバックなんてやったことないから、最初に言われた時は、もうそれは「抜かれても文句言わないでね」って感じでした(笑)。

――前めのポジションだったのに、DFへのコンバートはすぐに割りきれたんですか?

 自分が代表で生きていくには、そこしかないというのはすぐにわかったので。そこに定着している人がちょうどいなかったし、「ここのポジションは今、チャンスだな」っていうのはありました。私は代表に入りたてだったんですけど、ラッキーなことに(安藤)梢ちゃんもサイドバックにトライしていたんです。緊張のなかだったけど、梢ちゃんとはタメ口で話せるからいろいろ聞いていました。

――そこから3年かけて、2011年W杯でついに覚醒。コンバートから始まったサイドバック人生、思い描くサイドバックとしてフィニッシュテープは切れました?

 うーん......まだまだやってみたいプレーはありましたし、向上心もあったので。それは描いていたものにたどり着けたかと言われたら、そうじゃなかったかもしれません。でもそれはてっぺんがないことなので。

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著者プロフィール

  • 早草紀子

    早草紀子 (はやくさ・のりこ)

    兵庫・神戸市生まれ。東京工芸短大写真技術科卒業。在学中のJリーグ元年からサッカーを撮りはじめ、1994年からフリーランスとしてサッカー専門誌などに寄稿。1996年からは日本女子サッカーリーグのオフィシャルカメラマンも担当。女子サッカー報道の先駆者として、黎明期のシーンを手弁当で支えた。2005年より大宮アルディージャのオフィシャルカメラマン。2021年から、WEリーグのオフィシャルサイトで選手インタビューの連載も担当。

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