明神智和にとってオリンピックとは?「出る前と後では、日常の意識が大きく変わった」 (3ページ目)
(日本が2-1でリードしていて)アメリカは最後パワープレーが多くなってきましたが、そのときの迫力というか、勝利への執念というか、そういうパワーはすごかったです。
(2-2に追いつかれて)PK戦で負けてしまったのは仕方がない。それよりも、PKに持ち込まれる前に勝ちきれなかったということへの反省が大きかった試合でした。
メダルを目指していながら獲れなかったことに関しては、もちろん責任も感じました。やっぱり4戦目になって徐々に体力的にも消耗していたというか、グループリーグ3試合にすべてフル出場して、(2連勝で突破を決められなかったので)消化試合もなかった。
そういうなかでのアメリカ戦は、ちょっとしたところなんですけど、ボールへの一歩が遅れたりして、『いつもより体が少し重いな』というのを感じながらやっていました。延長戦に入ってしまったあとは、そこからギアを上げていくまでの余裕はありませんでした。
強いチームは決勝トーナメントに入ってから、さらに力を出していくと言いますが、当時の僕らには、そこまでの力はまだなかったのかなと思います」
結局、シドニー五輪では悔しい思いをした明神だったが、2年後のワールドカップでは日本サッカー史上初となる決勝トーナメント進出に大きく貢献。その後も41歳で現役を引退するまで、Jリーグでも長く活躍した。
20年以上におよぶプロサッカー選手のキャリアにおいて、オリンピックでの経験とはどんなものだったのだろうか。
「日本のスポーツ文化において、オリンピックは昔から世間の注目が一番高い大会ですし、僕らの頃で言うと、日本サッカー界には育成年代から強化していくことで、将来ワールドカップでいい成績を残そうという目標があった。そのなかで、その過程にあるオリンピックでどれだけ日本がやれるのか、という意味で重要視されていた大会でした。
現に自分にとっても、シドニー五輪に出場できたことは大きかったと思います。
年齢制限があるにせよ、世界大会を戦って、自分が通用するもの、通用しないものに気づき、世界との差がどれだけあるのかを肌で感じることができた。それに、多少なりとも自信を得ることもできましたから。
年齢制限のある大会は終わって、もうA代表を目指すしかない。そうなったときに、僕はオリンピックを経験できたことで、そのためには自分が普段から、どういう練習をしなければいけないかとか、どういうことを考えて取り組まなければいけないか、ということがわかった。
オリンピックに出る前と後では、日常の意識が大きく変わったと思っています」
(つづく)◆明神智和が分析するパリ五輪「OAの力は必要」>>
明神智和(みょうじん・ともかず)
1978年1月24日生まれ。兵庫県出身。1996年、柏レイソルユースからトップチーム入り。長年、主将としてチームを引っ張る。その後、2006年にガンバ大阪へ移籍。数々のタイトル獲得に貢献した。一方、世代別の代表でも活躍し、1997年ワールドユース(ベスト8)、2000年シドニー五輪(ベスト8)に出場。A代表でも2002年日韓W杯で奮闘した。国際Aマッチ出場26試合、3得点。現在はガンバ大阪ユースコーチを務める。
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