明神智和にとってオリンピックとは?「出る前と後では、日常の意識が大きく変わった」 (2ページ目)

  • 浅田真樹●取材・構成 text by Asada Masaki

「僕がオリンピックを意識し出したのは、1997年のワールドユースが終わってからですね。20歳以下の世界大会が終わって、次の世界大会を目指すとなると、U-23のオリンピックだったので。

 もちろん、力のある選手がたくさんいたので、実際に自分の名前が呼ばれるまでは『どうなのかな』という気持ちを多少は持っていましたが、(登録メンバー発表)直前の親善試合で2試合ともスタートから出ることができたので、『(五輪メンバーに)入れるだろう』という自信も少しありました。

 僕らのときは、A代表とオリンピック代表の監督を(フィリップ・)トルシエさんが兼任していたので、ふたつのチームの戦術が大幅に変わることなく、同じシステムで同じサッカーをやっていました。だから、オーバーエイジの選手が入ってくるのもスムーズでしたね」

 日本がシドニー五輪のグループリーグで対戦したのは、対戦順に南アフリカ、スロバキア、ブラジルの3カ国。日本は最初の2試合で連勝したものの、ブラジルが南アフリカにまさかの不覚を取ったことで思わぬ混戦となった。

 そして迎えたブラジルとの最終戦。日本はこれに0-1と敗れたことで、グループリーグ敗退の危機が迫る状況に陥ってしまったが、同時刻に行なわれていた試合でスロバキアが南アフリカを下したことで、辛くも決勝トーナメント進出を果たした。

「初戦を勝てたことが非常に大きかったですね。同じグループにブラジルがいましたが、初戦の相手、南アフリカもかなり力があるって言われていましたから。実際、南アフリカは、当時マンチェスター・ユナイテッドにいた(クイントン・)フォーチュンとか、個のタレントもそろっていて、力のあるチームでした。

 でも、そこで勝ち点3を取れたことが大きかったですし、自信にもなりました。

 ブラジルが(南アフリカに敗れて)つまずいたことで、2連勝しても(その時点ではグループリーグの)突破は決まらず、最後までわからない展開になりましたが、結果的に突破できたことを考えても、やっぱり初戦が大事だったなと思います。

 ブラジルは90分を通して、まったく歯が立たなかったわけではないけど、要所要所でうまいというか、強いというか。それほどいい試合をしているわけではなくても、試合運びがうまくて、1対0で勝ってしまう。その勝負強さはものすごく感じました」

 オーバーエイジの3人を除けば、23歳以下の選手ばかりとはいえ、当時のチームは実質A代表と呼んでもいいだけの顔ぶれがそろっていた。もちろん、明神も例外ではなく、すでにA代表デビューを果たしていた。

 それゆえメダルを期待されてシドニーに乗り込んだわけだが、日本は準々決勝でアメリカに2-2からのPK戦で敗れてベスト4進出はならず。「史上最強」と称されたチームも、メダル獲得はならなかった。

「アメリカは強かったですね。確かにフィジカルは強いけど、だからといってそれに頼るだけではなかった。ひと言で言えば、スキがないチーム。組織的なサッカーをしていたので、試合をやりながら、『手強いな』と感じていました。

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