C大阪・毎熊晟矢はキャリア4年目で日本代表入り ストライカーだった男はどうやってサイドバックで成功したのか? (3ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei

【キャリアを左右する運命的な出来事】

「初めて全日本に選んでいただいて、そういった話が来るかなと思っていたんですけど、なかなか来なくて......。同級生ではすでに内定をもらっている選手がいるなかで、ちょっと焦りもありました。長崎が最初に声をかけてくれた時は、もう4年生の夏でしたから」

 早ければ3年生の時点で内定をもらう選手がいるなかで、毎熊はやや遅れをとったものの、思惑どおりに大学で成長し、プロになるという目標を見事に達成した。その意味で、桃山学院大での4年間こそが、今の毎熊の原点となっている。

「高校の時は、監督からフォア・ザ・チームの意識を叩き込まれて、本当に自分を犠牲にして、チームのために戦っていました。でも、大学に入ってもその意識でやっていたら、なかなか試合に出られなかったんですよ。だから1年生の時は試合に出るために、プロになるためにはどうしたらいいのかっていうのをすごく考えましたね」

 たどり着いた答えが、自己主張だった。

「自己犠牲よりも、自分が点を決めて、自分がチームを勝たせるっていうマインドに変えたんです。多少強引にでも自分でやりきるプレーが増えましたし、目に見える結果も増えていきました。そこの考え方を変えたところは、大学時代で一番大きかったことだと思っています」

 幼少期からの夢を叶えた毎熊は、2020年にⅤ・ファーレン長崎でプロのキャリアを歩み始めることとなる。得点もアシストもできる「万能型ストライカー」として評価されての加入だった。

 しかし、プロ入り直後に、その後のキャリアを左右する運命的な出来事が訪れることとなった。

「やっぱり、サイドバックに変わったことが僕の一番のターニングポイントですね」

 それは、1年目のキャンプのことだった。当時の長崎にはFWの選手が多かった一方で、右サイドバックを本職とする選手がひとりしかいなかった。そこで毎熊は、当時、長崎を率いていた手倉森誠監督から声をかけられる。

「右サイドバックはFWの選手を順番にやらせるから。とりあえず明日の練習試合では、お前がやってくれ」

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