C大阪・毎熊晟矢はキャリア4年目で日本代表入り ストライカーだった男はどうやってサイドバックで成功したのか? (2ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei

【大学時代、自分が一番うまいと思っていた】

 当時の東福岡高校には、ふたつ上に松田天馬(京都サンガF.C.)、ひとつ上には増山朝陽(V・ファーレン長崎)らと、のちにプロに進む選手が複数在籍していた。彼らのプレーを目の当たりにし、自身の力のなさを痛感させられる日々だった。

 3年生になってようやくレギュラーを掴み、インターハイと全国高校選手権の2冠を達成する。もっとも選手権ではケガの影響もあり、ピッチに立つことはできなかった。

 プロでやれるレベルになかったことを思い知らせた毎熊は、桃山学院大学に進学し、プロ入りの可能性を探り続けた。

「この4年間でダメだったら、終わりっていうぐらいの覚悟を持って大学には行きました」

 高校で味わった挫折を糧(かて)に、毎熊は大学で再び自信を取り戻すことになる。

「大学も全国からうまい選手が集まっていましたけど、自分で言うのもなんですが、自分が一番うまいと思っていました(笑)。

 1年生の時はなかなか試合に出られませんでしたけど、2年生からレギュラーになって、3年の時には全日本大学選抜にも選ばれた。そのあたりからプロに行けるんじゃないかという希望は見えてきましたね」

 1997年生まれの毎熊は、東京五輪世代にあたる。同級生には三笘薫(ブライトン)や旗手怜央(セルティック)など、大学生ながらすでに年代別の日本代表に選ばれるタレントの存在があった。

「もちろん彼らは有名でしたけど、僕は関西の大学なので対戦したことはなかったです。でも、関西にも田中駿汰(セレッソ大阪)とか山本悠樹(川崎フロンターレ)がいて、ふたりは当時から本当にうまかったですね。今でも言っているんですけど、彼らのことは『天才』って呼んでいました」

 大学では主軸としてプレーしながら、対外的にはさらに上のレベルの存在がある。選抜チームに選ばれたこともあり、いくつかのJクラブから練習参加の機会を得られたものの、なかなか内定をもらうことはできなかった。

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