日本代表にもしあの時、彼がいたら...。W杯メンバーから落選した名手たちの系譜 (3ページ目)
落選の選手で「痛かった」のは...
この2002年W杯では、高原直泰と伊東輝悦が疾患やケガのために落選している。高原不在も痛かったが、伊東不在はもっと痛かった。中村不在より痛かった。1998年フランスW杯ではメンバーに選ばれながら出場はなし。W杯本大会の土を踏むことができなかった名手の筆頭格をカズとするならば、伊東は2番手になる。3番手は2006年ドイツW杯に臨んだジーコジャパンで、ある時期、特別な才能を発揮したストライカー、久保竜彦と言ったところか。
意外に思われそうなところでは、ジーコジャパン時代の前半、右サイドバック(SB)やウイングバックに起用された山田暢久だ。外れた理由は、鹿島で行なわれていた代表の合宿期間中、7名の選手がホテルを抜けだしキャバクラで羽目を外すという事件が起きたからだ。山田はその影響を受け、以降、代表にすっかり呼ばれなくなった。報道によれば、山田は最後に少し顔を出しただけとのことだが、なぜかとびきり重い処分が科せられることになった。
山田の後釜に座った加地亮との比較で言えば、両者は少しばかりタイプが違っている。SB兼中盤。単なるSBではないところに山田の貴重さを覚える。一般的には、タッチライン際を上下に動く直進性こそが、SBに一番に求められる資質となるが、山田はそれを超えているという意味で貴重な存在だった。その後の元ドイツ代表、フィリップ・ラームを想起させる、時代を先取りした今日的な選手と言えた。
浦和レッズひと筋で、J1リーグでの通算出場試合数は501を数える。これは先述の伊東の517に次ぐ、J1通算9位の偉大な記録になる。その一方で、代表キャップはキャバクラ事件を機に15試合で途絶えることになった。W杯出場も果たしていない。山田は誰にも騒がれなかった落選者のひとりであるとは、筆者の見立てになる。
落選者から恨みを買いにくいか否か。代表監督の善し悪しを語る時、これも外せない視点となる。
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