日本代表にもしあの時、彼がいたら...。W杯メンバーから落選した名手たちの系譜 (2ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • photo by Press Association /AFLO

2002年、中村俊輔が外れた理由

 2002年の中村の落選も、カズの場合と同様、驚かされることではなかった。トルシエのお眼鏡に叶っていないことは、その1年以上前から明らかになっていた。2001年3月にパリ(スタッド・ドゥ・フランス)で行なわれたフランス戦を境に、トルシエの評価が急落したことは、中村のその後の出場試合数を見れば一目瞭然となる。わずか1試合しか出ていない選手が落選するのは、筆者には順当な結果に見えた。

 フランス戦には3-4-1-2の4の左として出場した。左ウイングバックと言いたくない理由は、トルシエがそのポジションの選手に、"槍"的な役割を求めていなかったことにある。「なぜ中村を『4の左』で使うのか」とトルシエに問えば「パス出しの起点にしたかった。最終ラインから組み立てるのは難しいので、中村を経由すれば、と考えた」と答えた。

 トルシエは「4の右」にも伊東輝悦、明神智和といったゲームメーカ?的な選手を配備していた。タッチライン際を上下する直進性に優れた選手を置くという概念を、トルシエは持ち合わせていなかった。両サイドを突かれると5バックになりやすい、守備的サッカーに陥りやすいという概念は希薄だった。「3-4-1-2と対峙したら両サイドを突け」という当時の欧州で鉄則とされた戦い方を知らなかったようだ。

 その結果がフランス戦だった。フランスは中村の背後に狙いを定め、執拗に突いてきた。5-0というスコアとその戦法は深く関係していた。トルシエが唱える3バック(3-4-1-2)の構造的な問題を見せられた試合だった。しかし、トルシエはそれを中村の個人的な問題として処理しようとした。フランス戦の前と後の中村の出場機会にそれは端的に表れているとは、先述のとおりだ。

 中村が外れたもうひとつの理由は、戦力としてというより、チームのまとめ役として、峠を越えたベテラン選手をメンバー入りさせたことだ。秋田豊と中山雅史だ。中山は1試合、交代出場を果たすことになったが、今回、もし森保監督がこれに習うような選考をしたら、時代遅れの発想として、さぞ非難を浴びるに違いない。

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