ドイツW杯初戦のオーストラリア戦、チームを離れた田中誠が疑問を感じたジーコ監督の采配 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

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 でも、なかなかチャンスを与えてもらえない。フラストレーションは相当たまっていたと思うけど、それを表に出すと『輪を乱した』と言われてしまう。みんな、難しい状況に置かれていたと思います」

 田中は大会直前までチームに帯同していただけに、チーム内の事情をよく理解していた。メディアなどを通して聞こえてくる不協和音の声は、ある程度想像がつくものだった。

 続くクロアチア戦、日本はそれまでの3バックから4バックに変更して臨んだが、0-0のドローに終わり、結果を出すことはできなかった。

 グループリーグの最後は、ブラジル戦。勝てば予選突破の可能性もあったが、田中はブラジルの強さをよく知っていた。

「ブラジルとは(1996年の)アトランタ五輪の時に対戦して勝ちましたけど、ブラジルの凄さを肌で感じました。ブラジルは80%ぐらいの出力だったけど、自分たちは120%で対応しないといけなかった。

(ドイツW杯前年の)コンフェデレーションズカップでもブラジル(2-2の引き分け)とやったけど、圧倒的にうまくてプレースピードが速かった。それは、経験しないとわからない。W杯でブラジルと本気で戦えるのは羨ましいなと思ったけど、五輪とはいえ本気になった時のブラジルを知っていたので、怖さもありました」

 迎えたブラジル戦、日本が玉田圭司のゴールで先制した。だが、それが巨象を眠りから覚ます結果となり、前半終了間際に追いつかれたあとは、ボコボコにされて1-4で敗れた。

 2002年日韓W杯でベスト16入りしたことによって、大きな期待を背負っていた日本だったが、グループリーグを1分2敗の最下位。1勝もできずにW杯敗退が決まった。

「2002年日韓W杯を経て日本の選手レベルは上がったと思うし、ドイツW杯でも大会前は世界ともある程度戦えるだろうなと思っていました。でも実際は、W杯で世界とガチで戦うと、まだ大きな差があった。

 それに、当時の日本サッカーはどこを向いていくのかすごく曖昧で、日本に合ったスタイルも確立できていなかった。それは今もそうかもしれないですけど、ドイツW杯の頃の日本サッカー界は楽観的で、ちょっとぬるかったかもしれません」

 W杯後、しばらくしてキャプテンの宮本恒靖は「マコがいてくれたら、チームはもっとまとまっていけたと思う」と田中不在の影響の大きさを語った。田中も日本代表が不本意な結果に終わったことについて、自らの責任を感じていた。

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