中村俊輔が02年W杯メンバーに選ばれなかった非情。トルシエが代表監督の4年間は成功だったのか (4ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 山添敏央●写真 photo by Yamazoe Toshio

 トルシエに話を聞くと、好きなサッカーはバルセロナで、攻撃的サッカーを好むと言う。それがウイングバックにゲームメーカー的な選手を置く理由だと答えた。しかし、W杯本大会で攻撃的サッカーを開花させたのは、案の定、ヒディンク率いる韓国だった。

 トルシエジャパンのサッカーはどこをどう見ても守備的だった。その差に日本のメディアは気付づけずにいた。それぞれの3バックを「3バック」のひと言でくくっていた。スポーツ新聞が布陣図を掲載するようになったのはこの頃からだが、ヒディンク式3バックをキチンと描いていた図を、見たことはなかった。

 いまなお日本で3バックと言えば守備的なものと相場は決まっている。そうではない攻撃的な3バックがあることを知る人は、思いのほか少ない。20年前のトルシエの影響は、そうした意味で大きかった。

 宮城スタジアムで行なわれたW杯決勝トーナメント1回戦。日本がトルコに0-1で敗れた試合は、コルドバで行なわれたスペイン戦を彷彿させた。「守備はオッケー。あとは攻撃的精神を持って臨めば......」。日本は永遠に解決しない問題に最後まで向き合うことになった。
(つづく)

4 / 4

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る