日本サッカーを育てた名将ランキング。1位はあの世界的指導者か、日本代表元監督か (4ページ目)
3位:ハンス・オフト
日本初のサッカープロリーグ(Jリーグ)が産声をあげる直前の1992年、史上初の外国人監督として日本代表を指揮したのが、オランダ人のハンス・オフトだ。
オフトが頻繁に口にした「スモールフィールド」「アイコンタクト」「スリーライン」といったサッカー用語は、選手のみならず、メディアを通して一般のファンにも浸透。そうした社会現象も含め、日本が世界へ羽ばたくための礎を作ってくれた名将だった。
結局、ドーハの悲劇によって1994年アメリカW杯出場は叶わなかったが、オフトが代表を率いた2年間で、日本サッカーが手にした財産は多い。
夜明け前の日本サッカーと、育成的指導に長けたオフトとのマッチングの妙。もしあの時代の日本代表監督がオフトでなかったら、日本サッカーの成長速度はもっと遅くなっていた可能性は高いだろう。
(中山淳/文)
2位:ミハイロ・ペトロヴィッチ
サンフレッチェ広島の黄金期の土台を築き、低迷する浦和レッズを立て直し、昇降格を繰り返すコンサドーレ札幌をJ1に定着できるチームに仕立て上げた。異なる3クラブでこれだけの成果を生み出したのは、Jリーグの歴史においてミシャ以外には見当たらない。
それを可能としたのは、揺るぎない哲学の下で熟考された、たしかな戦術があるからにほかならない。代名詞の3-4-2-1のシステムをベースに、最終ラインからボールをつなぎ、センターバックにも攻撃参加を求め、美しく勝つサッカーを追求し続ける。
たしかにタイトルには縁遠いかもしれないけれど、結果以上のものを、選手にも観る者にももたらしてくれる。稀代の戦術家であり、生粋のエンターテイナーは、人間性にも優れ、多くの教え子たちに愛される続ける情熱の人でもある。
(原山裕平/文)
1位:イビチャ・オシム
ユーゴスラビア対アルゼンチン。フィレンツェのアルテミオ・フランキで行なわれた1990年イタリアW杯準々決勝は、0-0で延長PK戦に及ぶ熱戦となった。そこで指揮を執っていたユーゴスラビアのイビチャ・オシム監督は、その9年後(1999-2000シーズン)、シュトルム・グラーツというオーストリアの弱小チームを率いてチャンピオンズリーグ(CL)本大会に出場。翌2000-01シーズンには、見事CL2次リーグ(ベスト16)に駒を進めている。
来日は2003年。ジェフユナイテッド市原(現在は千葉)の監督に就任するや、成績を急上昇させる。すると、時のサッカー協会会長の川淵三郎は、2006年、日本代表監督に強引とも言える手法でオシムを引き抜いた。
それまで優に10年分は存在した欧州との実力差は、これをもって大きく縮まった。
1度ロングインタビューをしたことがあるが、何時間でも話をしていたい、話術、評論性に優れた、まさしくサッカー的な監督だった。
(杉山茂樹/文)
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