「ヒデはすごかったよ」と松田直樹は言った。アトランタ五輪は日本の選手に何をもたらしたか (3ページ目)
◆中田英寿を上回る天才に起きた悲劇。リーガに「ぶっとんだ自信」で挑んだ
「その点、ヒデ(中田英寿)はすごかったよ。どんどん世界に飛び出して、新しいことをやっていった。でも自分はマリノスの選手として、クラブを強くして、優勝させて、自分自身も成長することができた。実はスイスのクラブとかからオファーはあったらしいけど、自分にはマリノス以外、考えられなかったし。そうやって生きてきたことを誰よりも誇りに思っているよ」
それはひとつの選択であり決断だった。
松田は2000年のシドニー五輪にも中田とともに出場し、準々決勝のアメリカ戦に出場した。2002年の日韓ワールドカップでは、Jリーガーとして世界と互角に渡り合った。田中と同じく、Jリーグを代表するディフェンダーだ。
松田と同じくアトランタでメンバー最年少だった中田は、「このやり方では世界では勝てない」と言い切ったという。五輪という舞台を戦ったことで、その野心は巨大化した。何かに取り憑かれたように上を目指し、1998年のフランスワールドカップで世界に名前を売って、セリエAデビューを颯爽と飾った。スクデット獲得という快挙を成し遂げ、日本人の欧州進出の先駆けとなった。「世界に負けない」というよりも、世界を飲み込もうとした。
一方、五輪は光と影が交差する場所だ。
アトランタでエースだった前園は眩い脚光を浴びたが、運命に翻弄されることになった。大会後、欧州のクラブへの移籍に動いていたようだが、交渉は難航。瞬く間にプレーのキレがなくなっていった。国内のクラブへの移籍後、ブラジルに渡るなどしたが、完全にタイミングを逃した。アトランタでのプレーは、儚い夢のように消えてしまった。
「自分は運が良かった」
そう松田は語っていた。
「高校生の頃から、世界の強豪と戦う機会をもらった。"少しでもミスしたらやられる"という感覚を養えたっていうか......。怖さを肌で感じて、びびった。でも、それよりも(やられると)むかついたし、燃えずにはいられなかったよ。(ヌワンコ・)カヌー、ラウル(・ゴンサレス)、(二コラ・)アネルカ、ロナウド......こいつらに負けねぇぞ、という反骨心と緊張感を持ってやり続けてきたから、成長できた」
松田の言葉は、東京五輪を戦う選手たちへのメッセージにもなるだろう。五輪は終着点ではない。出発の場所だ。
(つづく)
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