トルシエが語っていた「最強」シドニー五輪代表の実像。「中田英寿は特別だった」
五輪サッカーの光と影(2)~2000年シドニー五輪
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シドニー五輪日本代表ほど、金メダルを期待されたチームはなかった。
1995年のワールドユース(現行のU-20ワールドカップ)に、日本は中田英寿、松田直樹らを擁して1979年以来16年ぶりに出場し、史上初のベスト8に進出した。1997年のワールドユースでも中村俊輔、柳沢敦、宮本恒靖を中心に連続のベスト8進出。そして1999年のワールドユースでは小野伸二、高原直泰、稲本潤一、中田浩二らが大会を席巻し、決勝まで勝ち進んで「黄金世代」と呼ばれた。
この3世代が融合したのが、シドニー五輪代表だった。
代表監督だったフィリップ・トルシエがU-20代表、シドニー五輪代表監督も兼任し、2002年日韓ワールドカップを目指して、進むべき道ができていた。時代の追い風があった。Jリーグが1993年に開幕し、プロ化によって一気に育成年代が強くなっていたのだ。
シドニー五輪グループリーグ。日本は南アフリカ、スロバキアに連勝。ブラジルには敗れたが、決勝トーナメントに勝ち上がった。アメリカとの対戦では、先制しながら追いつかれ、再び突き放したものの、終了間際に同点にされてしまう。延長も優勢だったが、決着はつかず、PK戦で中田英が外し、メダルには届かなかった。膨らんだ夢は弾け飛び、惜しまれる敗退だった......。
彼らはどこまで強かったのか?
シドニー五輪アメリカ戦、中田英寿のPKが失敗し、日本は敗退したこの記事に関連する写真を見る 日本サッカー史上、最高の人材が揃っていたのは間違いない。遠藤保仁のような選手が、メンバーから外れたほどだ。
「代表に関して悔いがあるとすれば、シドニー五輪の前ですかね」
今シーズン、横浜FCでプレーするGK南雄太は、かつて拙著『フットボール・ラブ』(集英社)の取材でそう語っていた。1997年と1999年のワールドユースで2大会連続ゴールマウスを守ったが、ひとつ上の世代に川口能活、楢崎正剛がいて、代表でのプレーを半ば断念したという。
「(当時24歳だった)楢崎(正剛)さんがオーバーエイジで入ることが決まり、ショックでした。それで代表をあきらめてしまったんです。実際に一緒に練習して、"楢崎さんには敵わない"と思ったから。当時の自分とは、実力差がありすぎました。もし、そこで食い下がっていたら、違う風景を見られていたかもしれません」
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