「ヒデはすごかったよ」と松田直樹は言った。アトランタ五輪は日本の選手に何をもたらしたか (2ページ目)
アトランタ五輪ブラジル戦でGKジーダと競り合う中田英寿この記事に関連する写真を見る 当時の日本は中田英寿だけが突出し、彼には大会を攻めて勝つビジョンがあったという。ただ、戦力的に比較をすると、徹底的に守ることで活路を見出すのが常識的な時代だった。GK川口能活のビッグセーブ連発は、まさに象徴的だ。
「ブラジルの良さをどうやって消すか、それしか考えていませんでした」
アトランタでは3バックの中心で活躍した田中誠は、拙著『フットボール・ラブ』(集英社)の中で、そう振り返っていた。
「(ボランチの)ハットさん(服部年宏)がジュニーニョをマークしてパスの出どころをつぶし、ストッパーの2人が2トップに食らいついてくれたので、僕はコースを消し、相手の攻撃の芽を一つ一つ摘み取ることに集中しました。相手にはサビオ、ベベット、ロナウドら決定力のあるFWがいたので、ペナ(ペナルティエリア)にだけは近づかせないよう、能活(川口)とは『エリアの外からはある程度、シュートを打たせよう』と話していました。コースを限定した上で、遠目からはあえて打たせたほうがリスクは低いだろうと」
その粘り強く、計算された守備が勝利を呼び込む。ただ、集中力を使い切り、試合後は疲労感で一歩も歩けないほどだったという。
大会後、イタリアの有力紙『ガゼッタ・デッロ・スポルト』はベストイレブンに、予選リーグで敗れた日本から田中を選出した。当時、日本における五輪のスターは前園真聖、中田、川口、城彰二だったが、カテナチオという守備美学を生んだイタリアの記者の目にとまったのは田中だった。最終ラインでの読みとカバーリングが冴えていた。
その後、田中はジュビロ磐田の黄金期を支え、二度のベストイレブンに選ばれている。「彼ほどクレバーなディフェンダーはいない」と現場での評価は高く、フル代表では主にジーコジャパンでプレーした。
しかし、海を渡ってプレーすることはなかった。
「当時は日本人センターバックが、海外でプレーするのは考えられなかった時代だったから」
ブラジル戦ではサビオのマンマークを完璧に遂行し、途中出場のロナウドも封じた松田直樹は生前、そう説明していた。
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