日本代表に縁のなかった実力者たち。「シャドージャパン」を選んでみた (2ページ目)
1994年に日本代表監督に就任したパウロ・ロベルト・ファルカンは、実際にここで紹介した選手を何人も招集している。
前任のハンス・オフト監督は各ポジションの選手に細かいタスクを与える指導をしたが、元ブラジル代表のファルカンは才能溢れる選手たちを集め、彼らを自由にプレーさせようとした。
だが、オフト監督の指導法に慣れていた当時の日本では、ファルカンの方針はあまり理解されず、半年余りで解任されてしまった。そして、天才肌の選手たちは、その後ほとんど代表に招集されなくなってしまった。
天才たちを使いこなせるのは、自らも天才だったファルカンだけだったのかもしれない。ファルカン体制があのままつづいていたとしたら、こんな豪華な顔ぶれの代表が実現されていたのかもしれないのだが......。
サイド攻撃。攻守のバランスも整った、2000年代のシャドージャパン<2000年代の「シャドージャパン」>
(FW)水野晃樹(4)、平山相太(4)、家長昭博(3)
(MF)大野敏隆(0)、山田卓也(4)
(MF)上野良治(1)
(DF)新井場徹(0)、水本裕貴(7)、岩政大樹(8)、田中隼磨(1)
(GK)菅野孝憲(0)
※( )内の数字は日本代表国際Aマッチ出場試合数
2000年代の「シャドージャパン」では、大野敏隆にプレーメークを任せたい。大野は年代別代表に招集されていた頃は、中村俊輔と並び称される、いや中村以上の天才として知られていた。中村の繰り出す長距離パスとは違って、ワンタッチで相手守備陣を切り裂く鋭いパスが印象的だった。
鋭いパスに才能を発揮した大野敏隆 家長昭博や水野晃樹は、本田圭佑と同世代のアタッカーだった。本田はガンバ大阪でユースに昇格できずに星稜高校進学の道を進んだが、家長はG大阪のユースでプレー。年代別代表でもふたりは共にプレーすることになったが、その後、本田がその才能を開花させ、日本代表のエースとなり、また海外に雄飛してカリスマとなった。これに対して家長は大きなケガもあり、20代前半の頃はそこまで大きなインパクトを残していなかったが、才能は本田を超えていたかもしれない。
2 / 4