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井原正巳が驚いたファルカンの
ドーハ組解体。合宿は「毎回ヘトヘト」

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 高橋 学●撮影 photo by Takahashi Masabu

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私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第14回
早すぎたファルカン招聘。日本代表の失われた1年~井原正巳(1)

 パウロ・ロベルト・ファルカンが日本代表の監督に就任し、チームが始動したのは、今からちょうど26年前、1994年4月だった。

 選手としては超大物だった。82年のスペインW杯ではセレソン(ブラジル代表)でジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾと「黄金のカルテット」を形成し、セリエAのローマでは「皇帝」と呼ばれ、活躍した。

 指導者としては、90年にブラジル代表を1年間指揮し、コパ・アメリカ準優勝という結果。指導歴は浅いが、選手として世界を知り、トップレベルの修羅場を乗り越えてきたファルカンなら、日本サッカー史上初となるW杯(98年フランス大会)に連れていってくれるだろう。そんな期待感が大きく膨らんでいた。

 「ドーハの悲劇」のあと、日本代表の指揮官となったパウロ・ロベルト・ファルカン。photo by Kyodo News 「ドーハの悲劇」のあと、日本代表の指揮官となったパウロ・ロベルト・ファルカン。photo by Kyodo News このチームの中心だった井原正巳は、当時を振り返り、こう述べた。

「選手として実績のある人が監督になったので、どんなサッカーをするのか。どんなチームをつくるのか、すごく楽しみでしたね」

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