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闘将・柱谷がラモス瑠偉に最後通告。
オフトジャパン初優勝の夜の叫び

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第12回
オフトジャパンの快進撃とドーハの悲劇~ 柱谷哲二(2)

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 1992年8月のダイナスティカップ(現在のE-1サッカー選手権の前身)を直前に控え、日本代表は徐々にまとまりつつあった。

 ハンス・オフト監督の気さくな性格が見えてきて、監督と選手が打ち解け始め、また柱谷哲二キャプテンの「まずは監督の言うとおりにやってみよう」との声掛けに、一部の選手たちが賛同していたのだ。

オフトジャパンの時のキャプテンとしての苦労を語った、柱谷哲二オフトジャパンの時のキャプテンとしての苦労を語った、柱谷哲二 だが、ラモス瑠偉は自分のサッカーを曲げられず、オフトと内戦状態になっていた。ダイナスティカップは、日本にとって非常に重要な大会になる。柱谷は再度、ラモスのところを訪れ、キャプテンとして話をしにいった。

「この頃、オフトはラモスとぶつかって、鬱陶しいなって感じていたと思う。でも、ダイナスティで結果が出れば、チームはまとまる。ここが勝負どころだと思ったんで、ラモスに『ここで結果が出なかったら文句を言いましょう。それまでは監督が要求することをやってください』って言いました」

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