黄金世代のFWが次世代の
子どもたちに伝えたい20年前の経験 (2ページ目)
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世界で2位になったチームメイトは、すでにシドニー五輪に向けて動き出していた。世界大会で活躍し、輝きを増す同世代を横目に見ながら、高田は少し複雑な気持ちを抱えていた。
「五輪とかそういう世界の舞台は、当初自分の視野に入っていなかったんです。でも、ナイジェリアで一緒に戦ったメンバーがシドニー五輪に向けて戦うチームに入って、アジア予選とかで活躍していると、自然と目に入ってくるじゃないですか。自分のレベルはそこに達していないと思いながらも、やっぱり悔しかったですね。
ただ、ワールドユースの時、サポートメンバーだったソガ(曽ヶ端準)がシドニー五輪の予選で代表メンバーになって、プレーする姿を見て、すごく励みになりましたし、自分もがんばらないといけないと思ってはいました」
結局、ワールドユースから帰ってきてから、高田の調子が上がることはなく、五輪代表から声がかかることはなかった。所属のベルマーレも、年間でわずか4勝しか挙げられず、ファーストステージ、セカンドステージともに最下位となって、J2降格が決まった。
その際、高田はJ1の他クラブからオファーを受けたという。
「でも、お断りしました。たぶん、目標をもっと高く持っていたらオファーを受けたクラブでプレーし、『次はこうなりたい』とか考えることもできたと思うんですけど、当時の僕は、そういうことを考えられなかった。それに、ベルマーレに愛着があったし、降格させた責任もあったので、自分の力でベルマーレをJ1に上げたいと思っていました」
高田はその後もベルマーレでプレーを続けるも、J1昇格を果たすことはできなかった。
2005年シーズンの途中から横浜FCに期限付きで移籍し、2006年にはザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)に完全移籍。2010年のシーズン終了後、草津を退団した。33試合出場4得点と十分な働きを見せながら、契約交渉でゼロ円提示を受けたのだ。
この時、31歳。しかし、頭の中に「引退」の文字が浮かぶことはなかった。
「この(2010年)シーズン、チームで2番目に多く試合に出場していたので、『もう1年、やれるかな』と思っていたんですが、考えが甘かったですね。実は最終戦の前の練習で、右膝内側靭帯のケガをしたんです。しかも、クラブがベテランを切る方針となって、いきなりクビになった。
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