「アギーレ批判」に見る、日本サッカー界の未成熟 (3ページ目)
また、最近では、アギーレ監督がメキシコでの殿堂入りの表彰に出席するため、代表合宿期間中に一時帰国することに関して、ひどく問題視する記事がスポーツ紙のトップを飾っていた。「結果を求められるアジアカップの選手選考に大きく影響する」としているが、“結果を求めている”のは誰なのか?
そもそも、結果とは何を意味しているのか。優勝だとすれば、それを求めたところで簡単にかなうものではない。確かにザックジャパンは前回大会(2011年)で優勝したが、準決勝の韓国戦はPK戦による勝利(2-2/PK3-0)。延長戦の末に勝った決勝のオーストラリア戦(1-0)も、試合内容は劣勢だった。もう一度戦ったら、どちらの試合もどうなっていたかわからない。
前指揮官のザッケローニ監督は、現在のアギーレ監督に向けられるような批判を受けなかった。それは、就任早々の初戦、アルゼンチン戦(1-0)でまさかの勝利を飾って、続くアウェーの韓国戦(0-0)でもいい内容で引き分けたことが大きい。そして、アジアカップで優勝。この瞬間、ザッケローニ監督の4年間は「安泰」になったと言っても過言ではない。
だが、そこに落とし穴があった。アジアカップで優勝しても、本番(W杯)で0勝だった。アジアカップ優勝と最後の失速は、深い関係にある。
要するに、目の前の結果だけを見て、嬉々としていては、再び同じ過ちを繰り返すことになる。本題はどこにあるのか――。W杯での勝利である。そこから逆算して考えれば、親善試合の結果だけを見て「アギーレ監督批判」を展開するメディアの姿勢は、あまりにも身勝手。
重要なことは、結果にとらわれず、監督が何を目指しているのか、それがW杯で結果を出すためにいい方向に向かっているのか、である。もしそこに問題があれば、批判があってしかるべき。それは、声を大にして言うべきだが、親善試合の敗戦だけを理由に非難をするのは、あまりにも情けない。「木を見て森を見ない」愚かな思考法だと言える。
問題は、もうひとつある。
アギーレ監督はアジアカップ前の6試合は、「それに向けての準備試合。テストだ」と、就任記者会見の場で明言している。その傍らには、大仁邦彌会長、原博実専務理事も座っていた。
すなわち“テスト”は、協会首脳陣の総意に他ならない。言うなれば、「アギーレ批判」は協会首脳陣に向けられたモノである。とすれば、アギーレ監督を招聘した原専務理事は、もう少し代表チームの前面に出てきて、監督と協会とが一枚岩であることを示すべきではないだろうか。「木を見て森を見ない」メディアに対して反論すればいい。
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