ドーハの夜。オフトが綴った「二文字」が
日本の未来を開いた
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悲劇の舞台裏で起きた
知られざる「真実」――山本昌邦編
「ドーハの悲劇」が起こった1993年10月28日。そこが、日本サッカー界のまさに分岐点だった。以降、日本サッカーは急速な進化を遂げていったが、その過程を間近で見てきた人間がいる。現サッカー解説者の山本昌邦である。当時、対戦相手のスカウティング担当をしていた彼は、その後、U-20代表のコーチ、監督、五輪代表のコーチ、監督、日本代表のコーチを歴任し、日本が世界の扉を次々に開いていく瞬間を目の当たりにしてきた。そして今、山本は言う。「すべては『ドーハの悲劇』が教訓になった」と――。
機関銃を突きつけられた偵察部隊
敵の練習を見るのも命がけだった
山本昌邦はオフト監督の下でさまざまなことを学んだという。 誤解を恐れずに言うならば、山本昌邦にとっての「ドーハの悲劇」は必ずしも「悲劇」ではない。
そんなことを思わせるのは、山本という指導者が「ドーハの悲劇」以後、日本サッカーの歴史が塗り替わる瞬間にことごとく立ち会ってきたからだ。1993年10月28日を境に、指導者・山本昌邦の人生は大きく変わったとさえ言えるかもしれない。
日本サッカーが異常なまでの熱を帯びていた時代に起きた"歴史的事件"を振り返り、山本はこう語る。
「1992年のダイナスティカップ(現東アジアカップの前身の大会)で優勝し、同じ年のアジアカップ(広島開催)でも優勝して、(常に大きな壁だった)韓国にも勝てるっていう兆しが出てきた。翌年にはJリーグも始まって、だからこそ(最終予選の前には)W杯にも行けるんじゃないかっていう雰囲気になっていて......。実際に(出場権を)つかみかけただけに、その(ロスタイムで出場権を逃した)落差は大きかった」
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