日本サッカー界の至宝・藤田俊哉がオランダで見る夢の続き (2ページ目)

  • 小宮良之●取材・文 text by Komiya Yoshiyuki 松岡健三郎●撮影 photo by Matsuoka Kenzaburo

 Jリーグにおいて、藤田氏は黄金時代を謳歌したジュビロ磐田の旗手としてMFながら通算100得点(名古屋時代に達成)。それはまさに前人未到の大記録である。コンタクトプレイが必要とされるサッカー選手としては見るからに痩身だが、頭を使い、相手より優位なポジションを取り、迅速な判断と高度な技術があれば、無敵であることを証明した。世が世なら、香川真司のようになっていたプレイヤーだったかもしれない。

 しかしながら、藤田俊哉が藤田俊哉たる所以(ゆえん)は、やはり彼のプロサッカー選手としてのスタンスにあるのではないだろうか。

 ひとりのプロ選手として、必要なことは躊躇(ためら)わずに周りへ主張してきた。

 ロアッソ熊本時代だった。選手が地元の市民施設をリカバリー(マッサージなどの疲労回復)に使っていること、クラブハウスがないこと、練習場が定まらないこと、などに関して「生まれたばかりのプロクラブだから仕方がない」とあきらめるのではなく、「プロとはどうあるべきか」を昂然と口にした。そして彼自身が周囲に働きかけることで、ロアッソは当時から数年でプロクラブとして見違えるほど変わっていったのである。

 また、藤田氏は選手会長として、選手契約移籍ルールにも果敢に踏みこんでいる。

 2008年には、選手よりもクラブが優位に立っていたローカルルール「Jリーグ移籍金制度」を廃止、契約年数を決めて交渉するクラブと選手が立場同等の「FIFA国際ルール」を適用するようにした。

「有力ではない選手の年俸が下がり、首切りが多くなる」と弊害を指摘する人もいるが、海外移籍が増えたことは間違いない。そしてマンチェスター・ユナイテッドに移籍していった香川のような選手が、サッカー界全体、日本全体に夢を見させてくれている。

「サッカー選手の年金制度も確立したい」とも語っていた藤田氏は、その視点が選手の頃から飛び抜けていた。

 徹頭徹尾、ひとりのプロとして生きてきた人生観に、感化された選手は少なくない。藤田氏の後を追うようにオランダに渡っていった本田圭佑、吉田麻也、カレン・ロバートは言うまでもないだろう。

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