検索

【プロ野球】「クビになりそうな選手でも、まだもったいない」 若菜嘉晴が見た近藤貞雄の"人を生かす力" (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

「何かが悪くても、いいところを自分のものにして生かす、という考えがあったと思います。そういう意味で、日本ハムで印象的だったのは広瀬(哲朗)です。当時はまだ控えでしたけど、近藤さんが『おまえは走り屋専門なんだから、盗塁する時、ぜんぶヘッドスライディングしろ』って。そこからですよ、広瀬がスターになっていくのは」

 俊足でアグレッシブなプレーが持ち味だった広瀬は、やがてヘッドスライディングを代名詞とする選手になった。一塁にも頭から飛び込む、そのスタイルの原点に近藤の指示があったという。

 その後、打力も徐々に向上した広瀬は1993年、94年とオールスターに出場。遊撃手部門でベストナイン、ゴールデングラブ賞を2年連続で受賞するまでになった。

「個性的な選手をつくっていくんですよ。チームづくりじゃなくて。優勝するのは難しいかもしれないけれど、個性を見出して、生かすことに長けていたと思います。今の野球界は個性のある人が少ないんで、近藤さんみたいな監督がいたらいいんでしょうけどね」

 実際、日本ハムでの3年間でも優勝には届かず、1991年限りで近藤は退任。同じ年、若菜も37歳でユニフォームを脱いだ。理解者である近藤と出会い、捕手として長く現役を続け、打っては通算1037安打を残した。

【ダイエーのコーチとして城島健司の育成に尽力】

 そして引退後、若菜は指導者となる。ダイエー(現・ソフトバンク)監督の王貞治から、とくに城島健司の育成を託され、97年から2001年までバッテリーコーチを務めた。

 城島を指導するにあたり、若菜が協力を求めたのが、日本ハムからロッテを経てFAでダイエーに加入した田村だった。若菜自身が「日本一の捕手」と高く評価する田村を生きた教材とし、城島にはミットを大切に扱うところから教え込んだ。

「田村はもうレギュラーでやる力はなかったけれど、後々コーチになるとみて『城島に手本を見せてやってくれ』と。近藤さんと同じ考えで、田村のいいところを生かしたんです。それで城島には、少々やんちゃでも『野球をしっかりやってくれれば』って思いながら、いろいろアドバイスしました。指導者としてそういう接し方ができたのも近藤さんのおかげですし、今も感謝しています」

(文中敬称略)

著者プロフィール

  • 高橋安幸

    高橋安幸 (たかはし・やすゆき)

    1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など

フォトギャラリーを見る

4 / 4

登録は簡単! チェックを入れてボタンを押すだけ 詳しくはこちら

キーワード

このページのトップに戻る