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【プロ野球】「クビになりそうな選手でも、まだもったいない」 若菜嘉晴が見た近藤貞雄の"人を生かす力" (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

 1988年は開幕当初こそ若菜が起用されたものの、5月から市川和正の出場機会が増え、主力捕手となった。そんななか、若菜は「投手コーチが一球一球サインを出すのはおかしい」と首脳陣を批判した。公に首脳陣を批判することは当然、許されることではない。ただ、近藤からすべてを任されてきたプロ17年目の捕手として、納得できない思いがあった。

 さらにオフの契約更改時の記者会見では、年俸の増減をめぐって同僚を批判するような発言もあった。いずれも報道陣を前にした発言だったが、その影響は小さくなく、若菜はチーム内で居場所を失いかけていた。

【「もったいない」で選手を生かす】

 すると翌89年の開幕直前、無償トレードで日本ハムへの移籍が決まる。同年、監督に就任した近藤の要請だった。

「人づてに聞いたのか、心配で呼んでくれたんじゃないですかね。『おまえ、あそこにいても気まずいだろうから、オレが呼んだ』と言われましたので......。でも、選手に情がからむのは嫌だったはずなのに、よく呼んでくれたなと思います」

 日本ハムには正捕手・田村藤夫がいたが、控え捕手の層は薄く、若菜は2番手として貢献した。移籍2年目には「おまえが何とかしろ」と、近藤から託された新人左腕・酒井光次郎の専任捕手となり、10勝を挙げる活躍を支えた。若手投手にはベテラン捕手のリードが合う──。そこにも近藤らしい適材適所の発想があった。

「その人の、生かせるところを常に見つけようとしているんですよね。たとえば、クビになりそうな選手でも『まだもったいない、こんな長所があるんだから』と言って生かす。これは近藤さん自身もそうなんです。現役の時、事故で指が曲がってしまったんですけれど、それを逆に利用した変化球を覚え、ピッチャーとして復活したわけです」

 近藤は巨人で23勝を挙げた1946年のオフ、事故で右手中指を負傷した。戦後間もない時代で十分な治療を受けられず、指は曲がったままになった。本来の投球を取り戻せず巨人を退団したが、48年に中日へ移籍。中指を使わないパームボールを習得し、54年まで現役を続けた。

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