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【プロ野球】「普通なら監督批判で罰金ものですよ」 若菜嘉晴が明かす近藤貞雄と選手たちの"不思議な信頼関係"

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

野球の未来を見ていた男〜近藤貞雄伝
証言者 若菜嘉晴(前編)

「近藤貞雄さんがいなかったら、早々と野球を辞めていたかもしれません。僕はもう本当に、かわいがってもらいましたから」

 開口一番、若菜嘉晴はそう言った。1985年から横浜大洋(現・DeNA)、89年から日本ハムと、2球団で近藤監督のもとプレーした強肩の大型捕手。それ以前には阪神、太平洋クラブ=クラウンライター(現・西武)でもプレーし、現役生活は20年に及んだ。そんな若菜が、なぜ「早々と野球を辞めていたかもしれない」と言うのか──。まずは高校時代からの球歴に触れておきたい。

1983年7月に大洋に入団した若菜嘉晴 photo by Kyodo News1983年7月に大洋に入団した若菜嘉晴 photo by Kyodo Newsこの記事に関連する写真を見る

【戦力外危機から正捕手へ】

 若菜は福岡・柳川商(現・柳川高)から1971年のドラフト4位で西鉄(現・西武)に入団した。高校同期の真弓明信も電電九州を経て翌年入団するが、69年以降の西鉄は八百長騒動「黒い霧事件」(※)の影響で弱体化。72年オフに福岡野球へ売却されると、スポンサーの太平洋クラブを球団名に冠して再スタートを切った。
※西鉄・永易将之の八百長疑惑を発端に、複数のプロ野球選手と反社会的勢力との関係や敗退行為が次々と表面化し、池永正明をはじめ永久失格者まで出した日本プロ野球史上最大級の不祥事

 その間、若菜は二軍暮らしが続いたものの、コーチの指示で1年目から一軍投手の球をブルペンで受け、捕球技術を磨いた。73年には野球留学でアメリカの1Aでもプレーするなど、英才教育を受けていた。

 それでも一時は戦力外の危機に直面したが、柳川商の先輩である鬼頭政一が監督に就任した76年から出場機会が増加。球団名がクラウンライターに変わった77年にブレイクし、主力捕手となった。若菜に当時の状況を聞く。

「鬼頭さんが学校の先輩という縁もあって、使ってもらったと思います。それで開幕2戦目で満塁ホームランを打って。4月にもう1本、満塁で打って注目されて。阪急(現・オリックス)戦でよく打つんで、上田(利治)監督に覚えてもらって、オールスターにも監督推薦で出していただきました。で、その時、野村(克也)さんに『リード、教えてください』ってお願いしたんですよ」

 当時、野村は南海(現・ソフトバンク)の監督兼正捕手となって8年目。42歳の大ベテランに、23歳の若菜が単刀直入に頼み込んだが、こう返された。

「まだ10年早い。お金持ってきても教えない。30になったらわかる」

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著者プロフィール

  • 高橋安幸

    高橋安幸 (たかはし・やすゆき)

    1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など

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