【プロ野球】「普通なら監督批判で罰金ものですよ」 若菜嘉晴が明かす近藤貞雄と選手たちの"不思議な信頼関係" (2ページ目)
それでも一軍での出場が増えてからの若菜は、可能な限り球界を代表する捕手のプレーを凝視した。とりわけ惹きつけられたのが、投手を自由自在に操るようなリードだった。
「実際に30歳になる前ぐらいですかね。リードがどういうものか、自分なりにわかり始めたのは。阪神に移ったのが26歳でしたから。ピッチャーはひと癖もふた癖もある年上の人ばかりで、なかなか言うこと聞いてくれないですよ(笑)。それで個々の人間性とか性格を考えて、何とか引っ張って」
【単身渡米でつないだ現役生活】
球団がクラウンライターから西武へと変わる1978年オフ、若菜は根本陸夫監督からトレードを通告された。内野手・真弓、外野手・竹之内雅史、投手・竹田和史とともに、阪神の捕手・田淵幸一、投手・古沢憲司との交換で移籍。監督のドン・ブレイザーに重用され、新天地でも主力となった。自身初の打率3割超えを果たして9本塁打を放ち、ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)も初受賞した。
移籍2年目以降も正捕手として安定した働きを見せ、オールスターにも毎年出場。攻守に活躍していた若菜だったが、1982年オフ、醜聞をきっかけに退団を余儀なくされる。「黒い噂」もあって国内での移籍先が閉ざされるなか、翌83年2月、阪神球団代表の紹介でメッツ傘下3Aタイドウォーター・タイズに入団。3月に渡米し、メジャーを夢見てフロリダのキャンプに参加した。
「今なら日本で実績があってエージェントがつけば、とりあえずマイナーでも行けるんですけれど、僕は個人的に契約してひとりで行ったんで、それは無理ですよ。ただ3Aの監督が、巨人にいたデービー・ジョンソンだったのがラッキーでした」
トライアウトを経て3Aの選手枠には入れなかったものの、若菜はコーチ登録でチームに同行した。日本と縁のあるジョンソンが球団に推薦し、選手に欠員が出た場合には試合に出場できる立場だった。
とはいえ、まだ29歳。日本で現役を続けたいという思いは消えなかった。6月にメッツ傘下を離れて帰国し、7月1日に大洋への入団が発表された。チームには捕手陣の人材難という事情があり、監督の関根潤三とフロントとの間でも若菜の名前が話題に上っていた。
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