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【プロ野球】近藤貞雄と新庄剛志に通じる"自由"記者が語る「生まれるのが50年早かった」「今の日本ハムなら合うかもしれない」 (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

 学閥や郷土閥などの人間関係だけでスタッフを集めれば、監督の退任とともに皆が辞めることになる。そんな考えから基本的にはひとりで新天地に乗り込んだが、日本ハムでは最後まで優勝争いに加わることができなかった。

「環境面でかわいそうだったところもあります。近藤さんはルーキーを生かすケースが多くて、ピッチャーも若手をよく使っていましたが、当時は二軍のグラウンドがひどかった。室内練習場もなかったし、12球団で最低だったんじゃないですか。きちんとした室内があって、いいグラウンドがあって、若い選手が育つ環境が整っていたら、結果は変わっていたかもしれないですね」

【新庄剛志と重なる"自由人"近藤貞雄の監督像】

 1991年10月1日、本拠地最終戦の近鉄戦に勝利したあと、近藤は同年限りでの退任を表明した。「優勝は私の責任と義務です」と就任時に宣言しながら、3年間の最終順位は5位、4位、4位。優勝という結果を残せず、責任をとった。背筋を伸ばし「ファンの皆様を失望させた」と言った会見では表情に暗さはなく、「もうユニフォームを着ることはないでしょう」と締めくくった。

「退任が決まったあと、僕らお世話になった記者連中の主催で送別会を開いたんです。当時、新宿の新大久保にあった有名な鯰料理店で。『珍しいものを食べましょう』とお誘いして。それぐらい、仕事抜きで打ち解けてるところはあったかもしれないです。シーズン中の遠征先でも何度か、移動日の時に食事会を開いてくれる方でしたから。そこまでの監督はいなかったですね」

 1980年代半ばから90年代末まで7球団を担当し、一記者として8人の監督を間近で取材した今野。その目から見ても、近藤はグラウンドの内外で異彩を放つ存在だった。

「本当に、生まれてくるのが早過ぎましたよね。だから、今の日本ハムだったら近藤さんは合うかもしれない。新庄(剛志)監督と似ています。僕は彼がルーキーの頃に阪神を担当していて、やっぱり若い頃は自由人でしたから。近藤さんみたいに個性のある監督ってまず今いないし、新庄ぐらいじゃないですか」

 管理するより、自分で考えさせる。量をこなすより、質を求める。そして、既成概念よりも合理性を優先する。時代に合わなかったのか。それとも、時代が近藤に追いついていなかったのか。

 今野の言う「生まれるのが50年早かった」という言葉は、近藤貞雄という野球人を象徴しているようにも聞こえる。

(文中敬称略)

著者プロフィール

  • 高橋安幸

    高橋安幸 (たかはし・やすゆき)

    1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など

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