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【プロ野球】近藤貞雄と新庄剛志に通じる"自由"記者が語る「生まれるのが50年早かった」「今の日本ハムなら合うかもしれない」 (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

 近藤が投手の分業に本格的に取り組んだのは、中日の投手コーチを務めていた1965年だった。キャンプから投手陣を先発組と救援組に分け、それぞれ異なる調整をさせた。

 まだ「投手=先発完投」という考え方が根強かった時代である。球団OBが先行きを危ぶみ、多くの投手が救援組に入ることを嫌がるなか、前向きに受け入れたのが板東英二だった。近藤はのちに板東について、「分業制の実験台を買って出てくれた」と振り返っている。

【生まれるのが50年早かった】

「今から考えると、近藤さんは生まれるのが50年早かったと思うんですよ。分業制も、投げ込みさせないのも、早かったかもしれない。とくに投げ込みをさせないのは、コーチ陣や球団首脳、なにより大沢(啓二)さんの反発もありました。大沢さんは球団常務で近藤さんを招聘した人ですけど、元監督でもあって、ずっと"院政"を敷いていましたからね」

 もちろん、近藤の方針がすべての投手に合ったわけではない。球数を抑える調整法が合う投手がいる一方で、不安を感じる投手もいた。納得するまで投げ込むことでフォームを固め、投球に必要な筋力をつくってきた投手にとっては、それまでの調整法を変えることへの戸惑いもあっただろう。

 本来、そうした不安を受け止めるのは投手コーチの役割になる。だが、監督とコーチの間で考え方が十分に共有されていなければ、現場にズレが生じる。その点に、近藤体制の弱点があったのではないかと今野は見る。

「近藤さんの唯一の弱点を挙げるとすれば、スタッフがいないことでした。いないことがいいか、悪いかは一概に言えませんし、球団が用意してうまくいく場合も、もちろんあるんですね。ただ、当時の日本ハムはOBを大事にしてこなかったし、投手コーチのなかに近藤さんの考えを本当にわかっている人がいたのかなと」

 近藤はかねてから、「一族郎党を引き連れていくのは大嫌い」と公言。ただ、守備・走塁コーチの前田益穂だけは中日時代から縁が続き、大洋でもコーチとして招いた人物だった。「僕の気性とかやり方を知った人がいたほうが便利だから」との理由で前田を招いたが、それ以外のスタッフ選びは球団に任せた。

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