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【プロ野球】「打てなくていい。守備で一軍にいろ!」 近藤貞雄の"異例の辞令"で大ブレイクしたテスト入団生 (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

テスト生として日本ハムに入団し、16年間プレーした嶋田信敏氏 photo by Kyodo Newsテスト生として日本ハムに入団し、16年間プレーした嶋田信敏氏 photo by Kyodo Newsこの記事に関連する写真を見る 1988年3月に開場したばかりの東京ドームは、日本初の屋根付き球場だった。当時、日本ハムは巨人とともに東京ドームを本拠地としていた。両翼100メートル、中堅122メートルのグラウンドは、当時の12球団の本拠地では最も広く、近藤はまずそこに目をつけた。

【勝つだけでなく面白い野球を追求】

 球場が広くなれば、右中間や左中間を抜ける打球が増え、二塁打や三塁打も出やすくなる。そうなれば、次の塁を狙う走者を刺すため、俊足強肩の外野手が重用されるようになる。結果として、野球観戦の醍醐味のひとつである塁上のクロスプレーも増える。狭い球場でフェンスをギリギリ越える本塁打に比べ、そこには格段のスピードとスリルがあり、観客にとっても野球がより面白くなるというのが、近藤の考えだった。

「勝つだけではなく、ファンが見て、面白い野球をしなければダメです。パワーとスピードで、まず取れるだけ点を取る。その後、ガラリとディフェンスオーダーに代えるのも手でしょう」

 攻撃型のオーダーで試合に入り、リードした終盤には守備型の選手に入れ替える。球界で初めて投手分業制を提唱した近藤は、その発想を野手にも広げ、"アメリカンフットボール方式"とも言うべき野球を実践していた。大洋監督時代から本格的に取り入れ、日本ハムでも継続する意向を示したわけだが、この近藤の野球によって人生が変わった選手がいる。

 日大藤沢高(神奈川)から1979年に入団した外野手・嶋田信敏である。

 嶋田は1978年11月、日本ハムの入団テストを受けて合格。ドラフト外で入団すると二軍暮らしが続き、5年目の1983年に一軍デビューを果たした。その後は一軍と二軍を行き来し、1986年からは主に守備固めとして起用されたが、近藤監督2年目の1990年にブレイク。ついにセンターのレギュラーをつかんだ。

 近藤との出会いによって、何がどう変わったのか。嶋田に聞く。

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