【プロ野球】「打てなくていい。守備で一軍にいろ!」 近藤貞雄の"異例の辞令"で大ブレイクしたテスト入団生 (2ページ目)
さて、1986年の日米野球。日本の第1戦スターティングメンバーは以下のとおり。
1番(遊)高橋慶彦=広島
2番(三)石毛宏典=西武
3番(右)真弓明信=阪神
4番(DH)落合博満=ロッテ
5番(中)秋山幸二=西武
6番(一)中畑清=巨人
7番(左)山本和範=南海
8番(捕)山倉和博=巨人
9番(二)辻発彦=西武
投手 江川卓=巨人
超一流選手が揃い、近藤も勝利にこだわった。だが、それでも日本は全7試合で1勝6敗。投手陣は14本塁打を浴びた一方、攻撃陣はわずか2本塁打に終わり、攻守にわたってパワーの違いを見せつけられた。
【評論家から再び監督へ】
ただ、この結果で近藤の評価が下がることはなかった。むしろ、その注目度はさらに高まった。翌1987年からは新聞の野球評論家、テレビの解説者として活躍する一方、週刊誌に原稿を執筆し、著書も刊行した。
特に週刊誌では、野村克也(元南海ほか)の長期連載終了を受け、その後を引き継ぐ形で連載を担当した。近藤の評論活動はスポーツマスコミの枠にとどまらず、そこで綴られる先進的な考え方は他分野からも関心を集めた。やがて、野球好きの知識人たちとも交流を持つようになる。
年齢はすでに還暦を過ぎていたが、老境に入った感はまるでない。むしろ、野球人としての存在感は増していた。そんな近藤に、パ・リーグ球団から声がかかる。
大洋退団から2年後の1988年11月、近藤は日本ハムの監督に就任した。同年まで4年間、高田繁が率いたチームは5位、5位、3位、3位と着実に順位を上げていたものの、優勝には届かず、高田はその責任を取って辞任。球団オーナー・大社義規の意向により、後任には「優勝争いのできる手腕を持った人物」を迎える方針が決まり、白羽の矢が立ったのが近藤だった。
就任発表会見では、早くも優勝を宣言している。
「ドームの利点を生かした思いきった野球、変わった野球、攻撃的な野球で、私の野球の集大成をお見せして、優勝を狙いたい」
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