【長嶋茂雄が見たかった。】立教大学時代の後輩が証言する、長嶋茂雄の"ミスタープロ野球"以前 (2ページ目)
【深夜3時にひとりで素振りをしていた】
立教大学の2学年後輩で、のちに大洋ホエールズで活躍した稲川誠さん
稲川が入学した時にはすでに長嶋はリーグを代表するスター選手になっていたが、そんなそぶりは見せなかった。
「4年生の時は、本屋敷さんがキャプテン。杉浦さんも長嶋さんも、みんなすごい選手だったけど、威張ったりすることはなかったね。レギュラーのなかでも特別な存在ではあったけど。
ただ、長嶋さんはほかの選手には関心がなかったように思えた。誰かを教えるところは見たことがない。監督になってから松井秀喜(読売ジャイアンツ)をつきっきりで指導をしていると聞いて、信じられない思いがしたもんだよ」
"立教三羽ガラス"が卒業したあとも強さを維持できたのは、彼らの遺産があったからだ。
「本当に強い時代だった。合宿所に入れるのはひと握り。ベンチに入れない部員は近くで下宿していたんだよ。合宿所にいる同期に聞くと、夕食後にみんなが素振りするなかで長嶋さんが出てくるのは最後。コースを決めて何回かスイングして終わりだったんだって。
その同期は『それだけしか練習しないのか』と思っていたらしいんだけど、夜中の3時頃にひとりでスイングしているのを知って驚いていた。大学時代から、人が見ていないところで相当振り込んでいたんだろうね。後輩たちはそういう姿から学んだことが多かった」
長嶋が4年の秋、最後の慶應義塾大学戦で通算本塁打記録を塗り替えた瞬間を、稲川は神宮球場のスタンドで見ていた。
「三塁を回ったところでコーチャーと抱き合って喜びながらホームを踏んだ。それを見て、感動したよね。球場全体がものすごい熱気に包まれていたことをよく覚えている。当時の神宮球場は広くてなかなかホームランが出なかった。六大学で投げるピッチャーはみんな、プロ野球に入ってすぐに10勝できるほどの実力があったから」
長嶋、杉浦に代表される黄金時代の立教大学は競争も厳しかった。
「僕は最後のほうになってやっとユニフォームを着させてもらったけど、1勝もできなかった。だから、それから数年後にプロ野球で長嶋さんと対戦することになるとは思ってもみなかったよ」
2学年下の稲川にとって長嶋は遠い存在だったが、不思議な接点もあった。
「そう言えば、プライベートで長嶋さんとの思い出がある。僕の知人が長嶋さんと知り合いだった関係で渋谷の映画館に一緒に行ったんだよね。僕たちが後ろを歩くんだけど、周りの人が『長嶋だ! 長嶋だ!』と言う。関係ないのに、こっちが恥ずかしくなっちゃってね(笑)」
プロ野球で活躍する長嶋に誰もが羨望の眼差しを送った。
「あの時はすごかった。その映画館は指定席だったから、真っ暗な館内を係の人が案内してくれるわけよ。懐中電灯で足元を照らしながら。そうすると、顔なんかろくに見えないはずなのに、『長嶋だ!』と気づく。暗いなかでも、なぜかわかるんだよね。
それだけオーラというか、存在感があったということなんだろうね。長嶋さんはそれほどすごい人なんだとあらためて驚いたよ」
著者プロフィール
元永知宏 (もとなが・ともひろ)
1968年、愛媛県生まれ。 立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。 大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。著書に『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)、『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(集英社)など多数。2018年から愛媛新聞社が発行する愛媛のスポーツマガジン『E-dge』(エッジ)の創刊編集長
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