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夏の甲子園でのバックスクリーン弾→大学で三冠王 立石正広が3球団競合のドラフト1位選手になるまで (2ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Uchida Katsuharu

【幻に終わった宗山塁との三遊間コンビ】

 ある日の紅白戦では、中堅まで115メートルある専用グラウンドのバックスクリーンを超えていったという。

 西岡部長は、「あのバックスクリーンを超えたのは、今まででひとりかふたりしかいません」と、興奮気味に振り返る。

「バックスクリーンのスピードガン表示の上にぶち当てたこともあります。当時完成したばかりの電光掲示板が壊れるのではないかと心配しました(笑)。あんなところまで飛ばす選手はいないだろうと思っていましたが、その飛距離が本当にすごかったですね」

 東京六大学の名門でも、その豪快な打撃は見劣りしなかった。高校2年冬に参加した明治大の練習会で、大学生にも負けない飛距離で柵越えを連発。当時の指導者たちの度肝を抜いた。

 ただ、スポーツ推薦枠の関係で返事待ちの状態がつづく間に、熱心に誘ってくれた創価大への進学を決断した。もし明治大に進学していれば、一学年上の宗山塁(楽天)との三遊間コンビが実現していたかもしれない。

「甲子園で本塁打を打った時にはもう創価大に行くことを決めていました。コロナ禍でなかったら、もう少しプロのスカウトの方々が見に来てくれたと思うので、高卒でプロの話もあったかもしれませんが、大学に行って正解ではなかったでしょうか」

 立石は高川学園での6年間で、指導者が期待する以上の成長を遂げ、故郷の山口から巣立っていった。その成長曲線は、創価大入学後に、さらなる上昇カーブを描いていくことになる。

 松本監督は「プロが見えてきたなと思ったのは大学2年の時ぐらいでしょうか」と振り返る。

「オフで山口に帰ってくるたびに体が大きくなっていました。バットを振れば、これはプロだなという打球を放つんです。高校でこれを求めていたら、もしかしたら壊れていたかもしれません。山野(太一、ヤクルト)と椋木(蓮、オリックス)も中学から見ていて、彼らは投手気質なのか、本当に手がかかりましたが、立石は逆に今の中学生や高校生たちに『頑張ればこういう選手になれるんだよ』という教材にしたいぐらいです」

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