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【プロ野球】ソフトバンク和田毅引退インタビュー「後悔なんて1ミリもない。40代に突入してからの野球人生はボーナスステージだった」 (4ページ目)

  • 田尻耕太郎●文 text by Tajiri Kotaro

── 王貞治会長に報告したのも日本シリーズ終了後だったのですね。

和田 はい、そうです。リハビリの立場で遠征先まで帯同するわけにはいかないので、横浜には行かずに自宅で試合を見ていました。日本シリーズの敗退が決まった夜、まずは娘に引退を報告しました。

── 娘さんには伝えていなかったのですか?

和田 どこで、どのように情報が漏れるかわからないですから。もし学校で「どうしたの?」とかなるのも心配だったので。それから両親。王会長には秘書の方に「明日お会いできますか?」と連絡したのですが、横浜に行かれていて都合がつかなかったために、翌朝の10時にお電話で報告させていただきました。

── 日本シリーズ終了が11月3日。引退会見はわずか2日後の11月5日でした。

和田 最初は6日に会見をする話もありました。だけど、5日のほうが、日取りがよかったんです。一粒万倍日で、新しく物事を始めるのに一番いいとされていて。また、6日だとアメリカの大統領選挙のニュースともかぶってしまうおそれがあったので、5日に行なったというのが経緯です。球団には日本シリーズ直後だというのにバタバタさせてしまい申し訳なかったですけど。

── チームメイトへの報告は?

和田 4日の夜ですね。リーグ優勝を記念した食事会があったので。そこにいたメンバーには直接報告をしました。みんな驚いていましたし、ギータ(柳田悠岐)は「やめんでくださいよ」とか「まだ辞める(引退)のをやめられますよ」と冗談か本気かわからない感じで迫られました(笑)。

── ピッチャーは「お山の大将」などと言われます。でも、和田さんは最後までチームメイトのことを想って、引退を隠し通して静かに引退していったのですね。

和田 それがチームのためなのか、わかりません。結局は自分のワガママですよ。

つづく


和田毅(わだ・つよし)/1981年2月21日生まれ。浜田高から早稲田大に進み、2002年  にドラフト自由枠で福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンクホークス)に入団。1年目から14勝をマークして新人王を獲得。以降、5年連続2ケタ勝利を達成。10年に17勝を挙げ、最多勝を獲得し、7年ぶりのリーグ制覇に貢献。11年オフに海外FA権を行使し、ボルチモア・オリオールズへ移籍するも、開幕直前に左ヒジを手術。14年にシカゴ・カブスに移籍し、メジャー初登板を果たす。15年オフに日本球界復帰を決断し、16年より再びホークスに所属。復帰1年目から最多勝、最高勝率のタイトルを獲得した。24年のシーズン終了後、現役引退を発表した

著者プロフィール

  • 田尻耕太郎

    田尻耕太郎 (たじり・こうたろう)

    1978年生まれ、熊本市出身。 法政大学で「スポーツ法政新聞」に所属。 卒業後に『月刊ホークス』の編集記者となり、2004年8月に独立。 九州・福岡を拠点に、ホークスを中心に取材活動を続け、雑誌媒体などに執筆している。

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