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【プロ野球】ソフトバンク和田毅引退インタビュー「後悔なんて1ミリもない。40代に突入してからの野球人生はボーナスステージだった」 (3ページ目)

  • 田尻耕太郎●文 text by Tajiri Kotaro

── たとえば?

和田 千賀(滉大=現ニューヨーク・メッツ)がチームメイトだった頃に教わってプライオボールを使った練習を取り入れたり、40歳になってからピラティスも始めたり、とにかくやってみようと。一生懸命やって準備をして、もしダメでもあきらめがつく。とにかく悔いなく、やり残したことのない野球人生にしたい。それが信念でした。引退会見でも言いましたが、それは誇れるところです。

── 本当に晴れ晴れとした引退会見でしたね。涙はまったくありませんでした。

和田 むしろ、やっと引退できる日が来たんだなという感じでした。後悔なんて1ミリもない。ほんとにフルマラソンのゴールテープを切ったような......そんな感覚でした。しかも全力で駆け抜けたと思います。フルマラソンを全力で走る人はいませんが、僕は42.195キロを全力で走ったイメージでした。途中にはケガをして休んだ時期もありましたけど、最後まで全力で走りきれた。だから達成感の涙はあったとしても、後悔も悔しい思いも一切ありませんでした。

【娘にも伝えていなかった引退】

── そして、最後まで信念を貫いて、周りにはずっと引退のことを隠し続けました。

和田 嫁さんに話して、そして球団の上層部の方にだけは伝えましたけど、引退の話が漏れないかはちょっと不安でした。優勝に向かってみんなが頑張っているなかで、余計なことを考えさせたくなかった。『和田さんのために』とか、そんな空気にしたくなかったんです。そのなかで自分も最後はみんなと一緒に戦いたくて、一度は試合で投げられる状態にまでもっていき、シーズン最後は中継ぎとして一軍でも登板することができました。実力で選ばれたい。もしダメなら仕方ないと考えていました。

 だけど、最終的にはポストシーズン前に内転筋の肉離れを起こしてしまって。これはもう、さすがに現場の人にも話をしないといけないと思って、倉野(信次)投手コーチにまず相談しました。それから小久保(裕紀)監督、チーフトレーナーの鈴木(淳士)さんにだけ話しました。僕としてはケガ人だけど、最後なので一軍に近い場所でみんなの戦いを見守りたかった。その思いを汲んでくれて、4人だけで口裏を合わせて一軍に帯同できることになったのです。日本シリーズが終わる前に引退を知っていたのはここまででしたね。

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