追悼・吉田義男 阪神を愛し、野球を愛し、人を愛した男の知られざる幼少期の思い出 (3ページ目)
【京都二商在学中に3度甲子園出場も...】
入学する春、翌春、そして夏。二商は吉田の在学中に3回、甲子園出場を果たした。しかし1度目は入学前、2度目となるセンバツ大会はチームに同行したものの、試合はスタンドから観戦。そして3度目は、体調不良で野球から離れていた時期だった。
2度目となるセンバツ大会で決勝まで進んだ二商の相手は、吉田の家からほど近い場所にあった京都一商。甲子園唯一の京都勢同士の決勝戦となった。
「あの頃はどこも生徒数が多くて、二商の生徒も学校に収まりきらず、一商の校舎を借りて授業していました。そんな近所同士の一商と二商が甲子園の決勝で戦ったんですから......あとになって思えばすごいことでしたな」
試合は延長11回、1対0のサヨナラで一商が勝利。二商は日本一にあと一歩届かなかった。
「決勝の記憶も、大会の記憶も、私のなかにはほとんど残ってないんですよ」
吉田がまず思い出すのが、野球以外のことだった。
「食糧難の時代で、宿舎に泊まるには米持参が条件でした。だから補欠の私たちもリュックに米や芋を詰めて、京都から電車に乗り、大阪の梅田に出て、堂島浜の宿まで歩きました。焼け野原の跡地には闇市が広がり、人でごった返していました。舗装されていない狭い道を、馬車や牛車にぶつかりながら歩きました」
終戦から3年、吉田の記憶に残る1948年春の風景だった。
そしてチームが夏の甲子園を目指すなか、思いもよらぬ出来事が吉田を襲うのだった。
著者プロフィール
谷上史朗 (たにがみ・しろう)
1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。
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