追悼・吉田義男 阪神を愛し、野球を愛し、人を愛した男の知られざる幼少期の思い出 (2ページ目)
【幼少期の記憶は戦争のことばかり】
吉田は1933年(昭和8年)、京都市中京区中保町に二男三女の4番目の次男として生を受けた。父はもともと丹波の農家の生まれで広大な土地を持っていたが、大火事に遭い、慣れない商売を始めることになった。吉田が生まれた頃には、薪や炭の原料となる木材を採取する薪炭業で生計を立てていたという。
物心がついた頃、日本は戦火にあった。幼少期の記憶は、戦争にまつわるものばかりだったという。
「食糧難でいつもお腹を空かせていたことや、疎開先でのこと。子どもの頃の記憶といえば、ほとんどが戦争に関するものしかありませんわ」
そんな時代に、吉田は野球と出会った。
「棒切れをバット代わりにして、布切れを丸めたボールを打ってね。北野天満宮の広場で、友だちと三角ベースをやったのをうっすら覚えてますわ」
学校の運動会では、障害物競争が得意だったという。そんな少年が、いよいよ野球に夢中になっていくのは、終戦翌年の1946年(昭和21年)。京都二商に入学してからだった。
二商は、吉田の家の目の前にあった。毎朝8時過ぎに家を出て、日が落ちてしばらくしてから帰宅する生活。しかしそんな息子に対し、父はよく不機嫌な声を上げたという。
「何をしとるんや、家を手伝わんか!」
終戦直後、7人家族の生活。まして、父は勝負事にも野球にもまったく無関心。兄は工業学校の建築科に進み、自分は商業高校。父は、自分に商売を継がせようと思っていたのだろう。それを「毎日、毎日、野球遊びばかりしよって......」というわけだ。
野球をやめさせられるかもしれない。そんな危機を救ったのは母だった。
「本人がやりたいことだから」
母はそう言い、父を説得してくれた。当時は旧制中学最後の時代で、京都の野球は強かったという。
「鳥羽二中に一商、そこへ二商も強くなって、平安は僕らの頃からでしたな」
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