江川卓の球を打席で見た瞬間、小松辰雄は「こりゃ打てんな」と観念「プロに入ってビックリしたのは江川さんだけ」 (3ページ目)
1981年から先発に転向した小松は、江川と先発で8度投げ合い、結果は1勝5敗。その1勝というのが、1987年9月2日に後楽園球場で小松が3対0で完封した試合だ。小松にとって唯一の勝利の記憶は、今でも鮮明に残っているという。
そして小松を驚かせたのは、ストレートもさることながら、江川が真っすぐとカーブの2つだけでプロの打者を抑えていたことだ。
「江川さんは真っすぐとカーブだけだから。それはすごいと思う。なんか途中で"コシヒカリ"や"マスクメロン"と名付けられたボールがあったけど、あんなのはただのおちゃらけ。江川さんのカーブは浮き上がってストンと落ちるんだけど、打者はアゴが上がってしまうからバットが出てこない。本物のカーブです。とにかく、真っすぐとカーブだけであれだけ抑えられるのは、もうすごいとしか言いようがない」
小松は現役17年で通算122勝を挙げ、最多勝2回、沢村賞1回。中日のエースナンバーである背番号20を背負い、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた。
「中日の背番号20といえば、杉下茂さん、権藤博さん、星野仙一さん、オレ、それから宣銅烈、川崎憲次郎......このあたりもどうなんだかなんだけど、どっかの監督が新人に20番を与えてからおかしくなった」
スピードだけなら誰にも負けない自負を持ち続け、プロに入ってもその思いは揺らぐことはなかった。しかし、打席に立って江川の球を見た時、「なんじゃこれ」と慄(おのの)いた。粘るとか、なんとかしようというレベルじゃない。「これはダメだ」と即座にあきらめた。
小松にとってこの衝撃が忘れられず、それ以来、江川卓という存在が自然と大きくなっていった。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
著者プロフィール
松永多佳倫 (まつなが・たかりん)
1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。
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