鹿取義隆は自身の「放出報道」を藤田元司監督に確認しに行くと、「出てもいいよ」と返答され巨人退団を決意した (4ページ目)
「杉山は何よりコントロールがよかった。だから抑えもできると思ったし、僕らとタイプが違う左だからバリエーションが増えたよね。で、3人で9回、最後の1イニングを抑えることもあったけど、最初はブルペンで『マジ?』ってなった。森さんらしい、石橋を叩いても渡らないような采配。相手バッターの特徴、打順、右・左を考えたにしても、あの徹底ぶりはすごかった」
のちの"JFK"にも通じる、3人で7回以降を抑える継投。だが、"サンフレッチェ"は抑えをひとりに固定せず、93年のセーブ数は鹿取が16、潮崎が8、杉山が5。登板は順不同だったから、鹿取は潮崎と杉山に「助け合っていかなきゃダメだ」と助言していたという。
「ひとりに負担がかからないようにね。当然、起用法と順番は首脳陣が決めるんだけど、抑えは誰かひとりに決めていない。だったら、ひとりが長いイニング投げたり、ひとりが抑えばっかりやったりして、すべてを背負わないように。ひとりだけ疲れてしまうと"三本の矢"にならないんで、なるべく助け合っていこうと。『オレのあとにあいつがいる』と思うだけで気持ち的にラクになるから」
鹿取は巨人で抑えを務めた87年、意気に感じてマウンドに上がり、ひとりですべてを背負っていた。壊れてもいいと思いながら肩・ヒジは壊れなかったが、体全体への負担は大きかった。その経験を若いふたりに伝えたのだ。
最終的には左膝痛が原因で、97年限りで現役引退となった鹿取だが、巨人で11年、西武で8年、通算755登板で先発は16試合。91勝46敗、133セーブを挙げた。その時代のリリーフの価値を表すセーブポイント(セーブ+救援勝利/2004年まで公式記録)は216で、96年に江夏の210を超えた時点では日本記録。現在、鹿取の上には佐々木主浩(元大洋ほか)と髙津臣吾(元ヤクルトほか)がいるだけである。
(文中敬称略)
鹿取義隆(かとり・よしたか)/1957年3月10日、高知県生まれ。高知商から明治大を経て、78年にドラフト外で巨人に入団。87年にはリーグ最多の63試合に登板し、優勝に貢献。西武に移籍した90年、最優秀救援投手のタイトルを獲得。97年に現役を引退。98年に巨人の二軍投手コーチを経て、99年から一軍コーチに就任、2000年には日本一に導いた。01年にアメリカでのコーチ留学を経て、02年に巨人のヘッドコーチに就任。投手陣を再建し、優勝に貢献した。その後、侍ジャパンのテクニカルディレクター、U−15の代表監督、巨人のGM兼編成本部長などを歴任。現在は解説者として活躍している
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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