鹿取義隆は自身の「放出報道」を藤田元司監督に確認しに行くと、「出てもいいよ」と返答され巨人退団を決意した (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 巨人と違うと言えば、なにより当時のチーム成績が違っていた。巨人は81年、83年、87年、89年と飛び飛びに優勝して日本一は2度。西武は82年から2年連続日本一、85年からリーグ4連覇、86年から3年連続日本一と黄金期を迎えていた。そのなかに飛び込んだ鹿取は、巨人へのライバル心を持つ選手たちの強い視線を感じつつ、キャンプを順調に過ごして90年の開幕を迎えた。

「シーズン初登板でセーブを挙げて、何か優勝したみたいな騒ぎになったんだけど、その時、本当に西武ライオンズの一員になれたと思った。そこから10試合連続セーブって当時の記録をつくらせてもらった。ただ、これは森さんが気を遣いながら起用してくれた結果だと思う。たとえば、潮崎がそのままセーブがつくのに、あえて僕につくような起用をしていたから」

 この年、ドラフト1位ルーキーの潮崎哲也が、即戦力として機能する。鹿取と同じ右のサイドスローでも持ち味は違い、落差の大きいシンカーが最大の武器。いきなりチーム最多の43登板で7勝8セーブを挙げ、102回2/3を投げて防御率1.84と好成績を残した。37登板で3勝24セーブを記録し、最優秀救援投手のタイトルを獲った鹿取に優るとも劣らない働きぶりだった。

「ブルペンに潮崎がいなかったら、僕はきつかったと思う。そういう意味では、自分にとって初めてのタイトルを獲れたのは潮崎のおかげではあるんだけど、じつは森さんが獲ったタイトルじゃないかと。鹿取が獲ったんじゃない、鹿取に獲らせたでもない、森さんが獲った(笑)」

 監督が獲ったとは極端な言い換えだが、チームで獲った、とは言える。鹿取の場合、三振奪取よりも打たせて取るタイプゆえ、バックの守りに頼ることになる。その点、当時の西武の守備力は内外野ともに鉄壁だったから、まさにチームでセーブを積み重ねたのも同然なのだ。

【7回以降を3人の投手で継投】

 もともと先発陣は充実していて、鹿取、潮崎のコンビでリリーフも安定した90年は王座奪還。同年からリーグ5連覇、3年連続日本一を達成して"常勝・西武"と称されたなか、93年、コンビがトリオになる。ドラフト1位ルーキー左腕の杉山賢人が加わり、"サンフレッチェ"と呼ばれる必勝リレーが確立。その呼称は、戦国武将の毛利元就による遺訓「三本の矢」の故事にちなんでいる。

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