角盈男は地獄の伊東キャンプでオーバースローからサイドスロー転向を決断 「何球でも投げられる」 (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

【人生を変えた地獄の伊東キャンプ】

 のちに「地獄の伊東キャンプ」といわれた静岡・伊東市での秋季キャンプ。チームが前年2位から5位に下降し、当時監督の長嶋茂雄がコーチ陣に向け、「巨人の将来を背負って立つ若手を徹底的に鍛えたい。血反吐(ちへど)を吐かせるまでやる」と要請して実施。参加メンバーは投手6人、野手12人と少数精鋭で、走り込みと筋力強化を中心にハードな練習を課したことで「地獄」になった。

「極端に言うと、午前中は投げるだけ、午後は走るだけ(笑)。そのなかでコーチとマンツーマンでやったんだけど、最初に言われたのは『おまえのいい時はすごい。悪い時はアマチュアになっちゃう。残念ながら、プロ野球はシーズンが長いんで、安定した力を求めなきゃいけない。だから、安定したボールを投げられるようなフォームでやっていこう』ということでした」

 投手コーチは杉下茂(元中日ほか)、木戸美摸(元巨人)、高橋善正(元東映ほか)。「マンツーマン」と言っても一対一ではなく、コーチ全員と取り組んだ。投手は角のほか江川卓、西本聖、鹿取義隆、藤城和明、赤嶺賢勇と少人数だからこそできる「マンツーマン」だった。

「で、『ヒジをとにかく上げろ。直す時は極端にやらなきゃダメだ』と言われて。実際にヒジを上げて投げると、70〜80球ぐらいを過ぎるとしんどいんです。当時はみんな1日に300球ぐらい放っていたので、必然的に腕の振りが横になってきた。そのほうがスムーズで、しんどくないんで。これだったら何球でも放れるし、投げるボールに責任持てるなって思って」

 フォーム改造に取り組むなか、ある意味では自然に腕の振りが横になっていた。じつはコーチたちには、角をサイドスローに変えようという発想はまったくなかった。

「だから最初は反対されました。自分でコントロールミスを修正できるようになって、キレのあるボールがいっていても、コーチたちには心配されて。でも、自分は横から投げたい──。だったら、ということで、長嶋監督のところへ連れて行かれました」

(文中敬称略)

後編へつづく>>


角盈男(すみ・みつお)/1956年6月26日、鳥取県出身。米子工業高から三菱重工三原を経て1976年のドラフトで巨人から3位指名を受けるも保留し、ドラフト期限前に入団。プロ1年目の78年、5勝7セーブで新人王を獲得。制球力に課題があるため、79年の秋季キャンプでサイドースローに転向。81年には20セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルを獲得し、チームの日本一にも大きく貢献した。89年に日本ハムヘ移籍。92年にヤクルトに移籍するも同年に現役を引退。その後はヤクルト、巨人でコーチを歴任。現在はスナックを経営する傍ら、タレント活動や野球評論家としても活動中

著者プロフィール

  • 高橋安幸

    高橋安幸 (たかはし・やすゆき)

    1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など

フォトギャラリーを見る

4 / 4

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る