「リリーフは落ちこぼれ」の時代、稀代の大エース・江夏豊はなぜ野村克也の提案を受け入れ抑え転向を決断したのか (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 一方、パ・リーグではロッテが優勝し、2年目右腕の三井雅晴が新人王。成績は31登板で6勝5敗でも4セーブを挙げ、6+4で10勝に等しい貢献度と評価されたのだ。南海の佐藤のような抑えは珍しかったなか、セーブが投手の評価を変えつつあった。江夏自身、先発しながら抑えでも活躍し、74年はチームトップの8セーブを挙げたが、あくまでも勝ち星にこだわっていた。

「セーブという記録は、先発の勝ち星とはまったく中身が違うものだからね。たしかにセーブもチームの勝利に貢献した結果の現れだけれど、自分がプロに入って目指した野球というのは、もっともっと大きな"エース"として投げ続けることだったから。でも悲しいかな、その頃は腕の故障で球に力がなくなって、コントロールと駆け引き、投球術で何とかしのいでいる状態だった」

 入団以来9年連続2ケタ勝利も、7年目の73年に24勝で最多勝から、74年は12勝14敗、75年は12勝12敗──。昭和時代のエースとしては「不振」と見られた。すると75年オフ、なかなか球団から契約更改の呼び出しがなく、年が明けた76年1月半ばにトレード通告。当時の監督である吉田義男とソリが合わず、奔放な言動で球団に迷惑をかけたことも一因だったのか。

【野村克也との出会い】

 19歳にしてチームの中心選手になった江夏は、若いうちから監督人事を巡る人間関係に疲れていた。グラウンド上では野球だけに集中できたが、球団に対する不信感もあり、阪神から出ることも考えた。半面、「阪神がオレを出すはずがない」という自負もあった。しかし球団の方針は変わらず。南海の江本孟紀らとの2対4のトレードが発表された。

「はっきり言って、南海に行く気はなかった。現役は終わってもいいという気持ちがあって、野球への情熱も薄れかけていた。その時、知り合いのスポーツ紙の記者から連絡があって、『いっぺん野村(克也)監督に会ってはどうか』と言われてね。大阪のホテルプラザで会食したんだけど、野村さんは会うなり、『おいおまえ、あの時、意識してボールを放ったろう』と言うわけ」

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