「リリーフは落ちこぼれ」の時代、稀代の大エース・江夏豊はなぜ野村克也の提案を受け入れ抑え転向を決断したのか (3ページ目)
野村が指摘したのは、75年10月1日の阪神対広島戦。江夏が完投勝ちした試合の7回表、一死満塁とされた場面で、相手打者は衣笠祥雄だった。カウント3ボール2ストライクとなり、相手の心理を考え、絶対振ってくるという確信を持って、江夏はボール球を投げた。結果は空振り三振だった。
「自分にしてみたら『えっ、そんなことを覚えているのか』と、驚きと喜びと戸惑いで頭の中がごちゃごちゃ。その後、2時間ぐらい、野村さんは野球の話しかしなくて、『早く南海に来いや』とか『一緒に野球をやろうや』とかいう言葉はまったく出てこない。野村という人は面白い人だなと思ったし、消えかけていた野球への情熱が燻ってきて、結局、南海への移籍を決めたんだよね」
ただ、左ヒジ痛に血行障害もあり、移籍1年目の江夏は36登板(先発20)で6勝12敗。148回1/3を投げて防御率2.96だったが、自身初めて2ケタ勝利はならなかった。そうして翌77年も腕の故障に悩まされながら開幕を迎え、4月は1試合に先発したのみで勝ち負けつかず。5月8日の日本ハム戦、2試合目の先発で完投勝利を挙げたが、直後、江夏は野村に声をかけられた。
「日生球場で近鉄のバッティング練習中、外野でウォーミングアップをしていた時に野村監督に呼ばれたんだ。左中間の芝生にふたりで胡座をかいて座ったら、監督が『リリーフをやらんか』と言った。自分は『何言ってんの。そんなこと、とんでもない』って答えたよ。カッとしてね。『今は肩の調子がよくないけど、必ずよくなるし、よくなると信じて毎日やってるんだから』って」
【生涯最後の先発登板】
野村に反抗した江夏だが、内心、故障は完治しないだろうというあきらめもあった。そんな気持ちを知ってか知らずか、野村は遠征先でも江夏にリリーフの話をした。自宅マンションが野村家と隣同士だったから、帰宅後も毎日のように「リリーフをやれ」と。そして、ついに転向するきっかけになったのは、「野球界に革命を起こさんか」という野村の言葉だったと伝えられている。
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